mark 【口語訳遠野古事記】宝暦4年、大洪水の事


一 昔のことです。寛永年中巳午の凶作は前代未聞の大凶作で人死が多く、背負った子供の腕を食べる母もいたと今の世まで語り伝えられていますが、詳しい様子が不明であるのは年数を久しく隔てているからでしょう。
 ここにつまびらかに記す洪水と凶作の2ヶ条は、現在20歳以上の人々であればいずれも目の前で見聞きし知っていることです。この書面を見る人は無駄に紙筆を費やすには及ばないと批判するかもしれませんが、今から5、60年ほど後世の人々に対し、遠野で起こった稀な凶変の有り様が申し伝わるようそのあらましを書き置くこととします。

一 宝暦4甲戌年3月から立秋にいたるまで日照りがちで、時々小雨が降っても田畑を潤す程ではなく人々は雨を願っておりました。
 7月19日、ようやく雨が降り始め、23日までの間は晴れの日も雨の日もありましたが、23日の夜に大雨となりました。しかし数か月、日照り続きの天気であったため、人々は洪水の危険があるとは思わず、五穀成就の恵みの雨だと喜んで祝いの酒に酔い伏し、高いびきをかいて眠る人もいました。
 その夜中に諸方の山々が崩れ、その崩落により夥しい水が湧き出て麓に大量の土砂が押し流されました。その土砂に雨水が加わり、川々に流れ込んだため川も洪水となりました。とりわけ来内川に近い栃の木沢という小さい沢の水が、通常は草むらの陰に埋もれて水が流れていても見えない程度であるのに崩れたことで大滝となり、音も凄まじく勢いよく水を来内川に押し出してしまったのです。
 24日の明け方前には大洪水となりました。石倉丁川端の屋敷では、寝耳に水という諺の如く不意に家の中に水が押し入り、敷板の上を水が流れる中、目を覚まして家人は大いに驚転したそうです。以前もこの川が洪水になったことはありましたが、小笠原十蔵屋敷まで水に浸ることはありませんでした。今朝の浸水で附馬牛八戸家頼母様の御蔵屋敷では中肉中背の人の肩に届く程水量が多く、そこより低い場所ではますます水嵩が増し、家の中に4尺あまり(※約120cm)も水が押し寄せました。四戸伯友の屋体は残らず押し倒され大変危険な状態に見えました。
 溢れた水は向かい側の屋敷という屋敷へ流れ入り、風呂屋の前などは肩の上を越す程の水勢で、大手口の板橋並びに橋際の家2軒を全壊し、会所の屋体は半壊しました。中舘十兵衛・是川十郎太夫の土蔵がある土地は水で掘られ崩れてしまい、一日市町の覚四郎の酒蔵も半分が欠け崩れ、酒桶も流失し新町上横丁の弥七の蔵も半分ほど崩れて流されたそうです。
 往還の土橋も押し流し、大慈寺門前の馬場の並木も過半数が倒されました。坂の下丁川端の屋敷では、家内の敷板の上を2、3尺余りも高く水が押し入り、山際の方の屋敷にも御城山から夥しい量の水が流れ込んだのです。門前の通り丁(※坂ノ下門=惣門)には坂から大滝の如く流れ落ちる水と、三方向(※大手橋・川端・山際)からの水勢が大変強く、坂の下丁と砂場丁境にある惣門の左右の柱が水流で抉(えぐ)られ、屋根共々砂場丁側に倒れ伏してしまいました。その水流に御城から流れ落ちる水が加わり、向かい側の屋敷に流れ込んで新町の屋敷裏へ、それに来内川で押し上げられた水が加わって勢いよく流れる水は常福寺・対泉院の門前方面へ分流しました。元町丁も砂場丁から来る水と新町から別れた水が落ち加わり、勢いよく流れる水の深さは普通の背丈の人の股に届くほどであったそうです。下同心丁の家々では梁近くまで浸水した所もありました。西丁馬場丁には稲荷山から流れる水、倉堀には白兀(※シラハゲ)道から流れる水と門前の沢水が落ち合って、いずれも水災を逃れた地域はなかったといいます。
 御本城は両所の御門番屋共に無事でしたが、大手の大門左側の土手が崩れ去り、御塀は数十間倒れその崩れた所から水が湧き出で、それが雨水に加わって馬場へ流れてきました。新田殿の屋敷も門に向かって右方向から御成座敷の向こうまで尺の木際から土手が崩れたことで水が馬場に流れ、両所からの湧水雨水が新田茂左衛門宅の門内に落ちて畑を伝い、黒波を漲らせて来内川へと押し寄せました。この他、御曲輪の屋敷はいずれもところどころ崩れ走り、その崩れ目から湧いた水が来内川に流れ、大手搦手の御坂も大破したものが多かったようです。
 この節、御家老衆並びに坂の下丁から下筋の御役人衆は、御城廻り並びに所々水を防ぐようにとの下知が下されましたが、来内川の洪水により川向いへの通路が絶えておりました。早瀬川も洪水で鶯崎の水門も危うく見えます。上御同心から御勝手方の沢里又右衛門に注進がありましたが、石倉丁より上筋には御勝手方の中舘儀左衛門・沢里又右衛門の他に御役人がおらず、かつまた儀左衛門は当番であるため遠所へ出ることができませんでした。そこで、五分の一金御取立の仮御目付・田中三右衛門と又右衛門並びに石倉筋の諸士、上御同心御町検断共や人足を召連れ、次から次へと鶯崎へ駆けつけました。その頃水門が破れかかり、川除けの土手道まで水が押し上げられ、上同心丁と三ヶ寺の方角に水が向かいました。水勢も強く土手道も段々崩れ非常に危険であったため、御町から縄俵を持ち配り、土手道に土俵を並べましたが押し流されてしまい、水先が御城下へ向かうのを防ぐことは難しい状態でした。そこで近辺の柳を伐って水を防ごうとしましたが、葉の隙間から水が漏れて押し留めることはできませんでした。
 そこで近くの御山にある雑木や常福寺の寺領である鶯崎の山に植え置かれた杉、欠ノ下稲荷山の杉を伐って逆茂木(※サカモギ 木の先端を全て尖らせ土に刺したもの)にして並べ置くと、これによりやっと川向いの方へ水流をはね返したので御城下には水が来なかったそうです。もしこの防御が叶わなかったら御城下は浸水し、水が来内川と合流して水難の災を逃れた場所は無かったでしょう。この水は川の向こうの新張表の田畑に押し上げ一面水浸しとしました。こちら側は上同心丁町・同心丁に水が流れ込み、その水は穀町・裏町・一日市町・大工丁にも押し寄せ、欠ノ下丁・下小路丁・東丁の被害も、去る享保年中の洪水程危うくはなかったものの、程度の差はあれ水が来なかった屋敷はないとののことです。
 この洪水で横田ばかりでなく村々の川も溢れました。その中でも附馬牛村のうち荒川近辺で発生した山崩れでは2、30人でも容易に動かせないような大岩が数多く転がり落ちました。崩れた所から水が湧き出て土砂を川や田畑に押し流し、この年の作物は言うに及ばず、田地が耕作不能となってしまいました。今度の洪水は、古老が伝えてきた山洪水呼ばれるものなのでしょうか。
 上郷の川々や早瀬・来内川の水が猿ヶ石川に加わり、下同心丁のはずれから宮の目の倉堀まで押し上げ、田畑の境も見えないほど一面水没してしまいました。愛宕岩の下の桔橋(※ハネバシ)も釣木も水がひたひたに届き、非常に危険な状態となっていましたが不思議と橋は落ちず、前後の築地が所々崩れたばかりでした。
 このほか上下郷の橋は大小残らず皆流れ、猿ヶ石の川水は、綾織・鱒沢へと流れ行く間に沢水・小川・小堰の水が段々加わり、水勢が増え広大な流れとなりました。川近辺の家や蔵は数軒が流され、御城下近くから下郷は大方が稗を刈って川近くの畑に立て置いていましたが残らず流れたそうです。かねてから水練の心得がある者達が川岸を流れる稗や様々な家財・屋材木などを掻き寄せ掻き寄せ、これらを取り上げ思いもよらぬ得をしたと喜び配る者もいたとか。ああ惜しいかな。川辺の田畑は言うに及ばず、溢れた水で稲・粟・大豆・小豆は根ごと抜けて流されてしまいました。水の淀みに残ったものは泥水に浸り、泥の中に埋もれ朽ち捨てられました。この水災に遭った百姓は春から今までの辛労も空しく、穂の上の餓死というのはまさしくこの事であると悔やみ嘆き、地頭はこの秋の年貢を失う不幸の愁(うれい)を得ました。
 今度の洪水は遠野のことだけで、他郷では洪水という災難はなかったようです。猿ヶ石川の下流の田瀬村の川は24日申酉の刻(※午後4時から午後6時)に突然大洪水が起こり、様々な家財・屋材木といった大小の樹木が乱麻の如く水面に浮き流れる様を見て、これは遠野が大洪水であると察したといいます。

 去る享保7年壬寅6月24日の洪水は鶯崎の水門が破れ、早瀬川の水が御城下に押し寄せ来内川に加わり、御城下は大洪水となりました。これは直栄様が八戸から御引き移りになって以来の珍事であると、その頃の人々は語っています。今回は早瀬の水門が壊れず、押し上げてくる水と来内川の氾濫ばかりでしたが、御城下の洪水は先年より水嵩が4尺余り高く見えました。享保7年から数えて今年は33年目にあたり、6月、7月と月は違えども同日に大洪水というのはまことに不思議なことであります。
 上記の通りの山崩れ・水辺の天災でありましたが、被害を受けた田畑を調べよとのお達しがありました。その結果、被害高は御蔵詰所では合計2239石5斗4升のうち、482石9斗7升は長期耕作不能、1756石5斗7升は収納が見込めない状態でした。このように盛岡城に御書上げなされ、この水災に遭わなかった田畑はいずれも取高が良く、かつまた近年継続して豊作で値段が安いため、世の中が騒ぐことはありませんでした。

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