mark 【口語訳遠野古事記】金堀り小松と高野山遍照光院


 一 こんな質問がありました。昔、遠野の小友村に小松という者がおりました。天性、金を掘ることを好み、家業の作働(※ツクリバタラキ 耕作に携わること)をせず、毎日杓子を持って村中を廻り、ここだと思う場所を掘っていましたが一向に金を掘り当てることが出来ませんでした。ある年の大晦日、突然大量の金を掘り出し、その金を荷物5駄にまとめ、上方へ登りました。その時、紀州の高野山で、南部領諸人の石塔場所を大金を出し永代に用意しました。そのため、遠野の人は言うに及ばず、南部領の人は貴賎を問わず、地代金を出すことなく石塔を建てたという古説があります。いかがでしょうか、と。
 お答えしましょう。私もその説を聞いております。先年、御石塔にかかわる御用を仰せつかり高野山に登った際、南部の宿坊である遍照光院(※ヘンジョウコウイン)の役僧にこの話をし、小松のそれに相当する場所のやり取りの証文などが今も当寺にありますかと尋ねました。すると役僧は、当寺には南部信濃守利直様の御代、地代のお金を出してお求めになられた場所を当寺に用意したと申し伝えられておりますが、小松という人が用意したということは一向に承っておりませんと申されました。
 私はまた次の事を尋ねました。南部の石塔場には小石塔を建てる隙間も無いように狭く見えます。これに続く空き地がありますが、そこに石塔を建てることは可能ですか、と。役僧は、その空き地は他の寺院の預かり場で、当寺の管轄ではないため、卒爾(※ソツジ 軽率、失礼な様)に建てることは出来ません。しかしながら、この場所を是非手に入れて建てたいと思うなら、いかほどか、その石塔の入方金(※イリカタキン 契約の証拠として相手に金銭を渡すこと)と同じお金を支払えば可能であると申されました。
 私が考えますに、小松の古説が虚説である筈がないと思われます。南部太守様の御石塔場は御自分の用地だけ用意して遍照光院に預け置いたもので、それに引き続く空き地は小松が用意したものでしょう。
 小松は裕福になったので、盲人の甥を一夜検校(※イチヤケンギョウ 金千両を納めて、盲官最高の位である検校を授けられた盲人のこと)に執りたてました。松内検校と呼ばれ、殿様に召し出され知行を100石給わりました。加賀野丁惣門そばの屋敷で子孫が相続していましたが、享保年中、松田小内という人物が乱心し自殺したので、家は断絶しました。
 甥を一夜検校にする程の大富豪でしたので、善い行いをした者として、その名を永く後世に残したいと思い、南部領諸人のために地代金を出し石塔場所を用意したのです。長い年月のため、高野山でこのことが知られなくなったのは残念なことであります。
 私が小友村の里人に、小松は何十年程前の人で、金を掘っていた場所はどこか聞いたことがありますかと尋ねますと、金を掘った場所は僧ケ沢という所で、今は小松の子孫の家が小友村に無いため、何時の時代の人であるかは分りませんと語りました。『本朝宝貨通用事略』という書に、慶長13年の頃、奥州の南部で黄金が多く出たが間もなく出なくなったと書いてあり、金の出た場所はどこかという記述はありません。もしかすると、僧ケ沢が繁盛していた時のことを書いたものでしょうか。遠野十二郷が南部様御領になったのは慶長6、7年の頃、利直様御代という古説があり、この両説から考えると、小松は慶長年中の人で、高野山に於いて南部領諸人の石塔場を用意したのも、この時代であろうと推察されます。
 高野山で遍照光院の役僧達に次のことをお尋ねしました。御当寺(※遍照光院)の旦那は南部の他に禄高の高い御大名様もいらっしゃいますか。南部の家から寄付された寺領があるように承っておりませんが、御門の冠木(※カブキ 鳥居などの上にあって両方の柱をつなぐ横木)に双舞鶴(※南部氏の家紋)の金具が見えるのは不思議に思われます、と。役僧は、南部様の他に小笠原大膳太夫様、信州の山村甚兵衛様などが檀家で、小笠原様からは寺領として100石現米で御寄附されております。南部様から御寄進の寺領はありませんが、当寺で公儀(※幕府)に次ぐ重要な旦那であります。その詳しい事情は、今に限らず、高野山の寺院中では御当主のみが旦那で、その領内の人々は他の寺を宿坊にすることも数多く御座います。小笠原様は御当主のみが当寺の旦那で領内の人々は他院の旦那です。南部様は御当主も貴賎を問わず全ての領民が当院の旦那で、かつ又御覧の通り山門にも御祈祷堂にも、南部信濃守利直建立と彫った板額がその所々に今もかけられております。このことから重要な旦那と考え、以前から南部様代替りごとに、御当主の署名・花押入りの書状をお願いし申し受けてきました。
 小笠原様家の宿坊は以前から行人派(※ギョウニンハ 高野山の僧で密教修学のかたわら大峰山など山々を修練、行法する者)の寺に御座いましたが、事情があり当寺を宿坊にしたいと仰せられました。南部殿へお伺いしてからでなければ対応出来ない旨をお話しました。南部様にこのことを申し上げたところ、南部と小笠原の先祖は兄弟で、そこから派生した家であるから構わないと仰せられたため、これ以来、当寺を宿坊にされ、寺領も御寄進したそうです。津軽様も以前の宿坊は当院で、護摩堂には「津軽右京亮為信建立」と彫られた板額が今も御堂にかけ置かれていますが、南部様と不和であったため、他院を宿坊にされたと申し伝えられております。
 南部御領内からの参詣の人々が当寺を早く見つける目印に、当院主が鶴の丸御紋をつけることをお願いしたところ、願いの通り許されたので、門の冠木に御紋の金物を打ち、幕・行燈に双舞鶴の御紋を描き、御覧のように昼は門から見える表座敷の外に幕を張り、夕暮からは台行燈を建て置いております。
 南部様代々の御書状は、いずれも文章は同じようです。現在の南部様から申し受けた御書状の写しはこのようなものです、と見せられました。
 南部領内の諸士から領民に至るまで、昔から高野山遍照光院の古い旦那ということは紛
 れもないことである。そのため、南部藩代々のお墨付きを強く望まれるので、以前に出さ
 れた書状にもとづき、後代のために、その証として遣わす。ついては、南部家の武運長久
 と家門繁昌を真心を込めて祈願していただきたい。

                    南部信濃守
                                      信応 御据判
  宝永6年3月19日
 高野山遍照光院
 この書状は、江戸桜田御屋敷に使いの僧が呼ばれ、御家老中野吉兵衛と申す人がお渡しになられたと承っていると語られました。
 私はまた次の事を尋ねました。当院の寺領は小笠原様寄贈の他にもありますかと。すると、当院の寺領は往古より30石の御朱印地(※幕府から与えられた寺領)が御座います。その他に碩学の役料(※博識な僧が給わる研究費)を100石から230石給わっております。但し、碩学料というのは当寺に永代与えられる寺領ではありません。一山(※高野山)の中に当宗門の学力が秀でている僧10人へ、いずれの寺院にも僧一代限りに隠居し与えられたものか、その高僧が亡くなった後、役料は他院に渡ったということを申されました。また、以上のような寺領収入だけではなく、紀州様も代々宿坊同然に毎月御祈祷を頼まれておりましたので、この初尾料(※ハツオリョウ 神仏へ奉納する金銭、米穀)も少なくありませんでした。かつまた、南部御領内からの参詣人も毎年おびただしい数が登られます。そのためか寺内の様子はことのほか賑やかで裕福に見えるようです、と申されました。
 当寺に逗留中、口中へ入れるとたちまち溶ける、柔らかで見事な氷餅を給わりました。当寺で作られたお菓子か、よそから来たものですかと尋ねると、「紀州様から毎年、公方様に御献上の氷餅を当寺で作っております。その際、係りのお役人が餅をつくために参られたとき、水のように随分ゆるくつき、絹のふるいで箱に入れ、山門の2階に上げて凍らせます。その後、縦横に曲尺(※カネ 金属製の物差し)を当て切り分け、2階に上げ次の春まで昼夜番人を置いて自然と干し固め、切り口に鉋をかけ青紙を張り御献上するもので、その残りを当寺にも下されたものです。これを御目にかけるようにと院主が申し付けましたので、今こうしてあなた様にお進めしておるのです。」と。
 以上、遍照光院について遠野の古事にはありませんが、小松の噂を記した関係で書き載せました。

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