mark 【口語訳遠野古事記】聖人より御答書の略記‐その2


 これにより御当家(※遠野南部家)は実長様の御嫡流であることが間違いないとされ、崇敬の御志も厚くなられました。御当家代々の俗名や法号の御書付を申し受け、朝暮に御回向(※供養、冥福を祈り読経すること)の勤行を行いたいと仰せ伝えられました。
 享保7年5月、宇夫方平太夫(私が若い時の名)が七面山へ御前様の代理としてお詣りに遣わされた節、御所望の御書付並びに仰せ残された御由緒書きも身延の寺へ遣わされました。この時、聖人が平太夫にこのようにお話しされました。「先年、日裕聖人就任御祝儀の使者として此の山に登られた貴家の西村氏にお贈りした晒布は、元祖日円公(※実長様)から拝領したものとかわりありません。また、徒に着古して捨ててしまうことを恐れ、これを二十五条の袈裟に仕立てて、年始の勤行の時だけ着用し、平生は使用しておりません。余りの布は、寺中の僧達が老いも若きもこれをお守りにしたいと申したため、小さく裁ち分けて配分したとのことです。我らが着用している袈裟を見て若狭殿(※西村殿)にはその旨を御承知いただきたくお見せしました。それは墨か茶色の袈裟であったように思います。」これ以降の身延への御使者は以下の通りです。

 ・享保16年10月13日、日蓮聖人450年忌御法事御執行のお知らせのため。御使者は三上    兵左衛門。
 ・同17年、日裕聖人御隠居お知らせ、御隠居。御当住日竟聖人に御祝儀を仰せ参らせる御    使者。同年7月小笠原瀧見。
 ・信彦様御代元文元年、御隠居御遷化のお知らせ。翌2年6月お悔みの御使者 木村半助。
 ・延享2年、日竟聖人御隠居のお知らせ。御当住(御名不明)御両所に御歓びの御使者。    同年8月目沢仁十郎。
 ・義顔様御代延享4年9月25日、日円様(実長様の御牌名)450年忌御法事御執行につい    てのお知らせ。御使者は馬場九右衛門。

【葬送儀礼‐その一 火葬・土葬、魍魎】
 往昔は貴賎共に死人を葬る方法は火葬でありました。棺の上に炭・薪藁を積んで火を放ち、昼夜番人を付けこれを焼き置くのです。3日目の朝、亡者の妻子・親類はその場所へ行き、焼いた灰を掻き分け掻き分け、涙ながらに歯骨を拾います。これを灰寄せと称します。拾い集めた歯骨を土中に埋める習俗はこの時代のものでした。
御当家でも御尊骸を志和佐比内村で御火葬にされ、御規式(※正式)の御葬礼は遠野で執り行い、御歯骨は大慈寺の御霊屋(※先祖や貴人の霊を祀っておく殿堂)に納め置かれました。
 ところが陽徳院様(※25代利戡公)以降御火葬の習慣がなくなり、御霊屋に御尊骸が御土葬されるようになりました。御規式の御葬礼で用いられた御棺の焼き場は、多分裏町の背後の大工町裏にあったと思われます。その場所に証となる御塚を築き置かれ、私が10歳前後の頃は、松晃院様(※22代直栄夫人)の御棺を焼いた後の塚が一つ、大乗院様(※22代直栄様)・光徳院様(※23代義長様)の御棺を焼いた跡の塚が二つ。この三つ以外にはありませんでした。三つのうち松晃院様の塚は穀町上みの裏にあり、御両人様の塚は裏町の背後にありました。

 上記の御葬礼について老人が語るこんな古説があります。松晃院様の御葬礼の時、御引導も渡され火屋(※カオク 火葬の木組み)に火を放つ頃、艮(※ウシトラ)の方角からにわかに暴風が吹いてきて、暗雲が立ち込めるや否や晴天がたちまち掻き曇ってしまったのです。その雲が火屋の近くまで渦巻いて押し迫り、天地鳴動して闇夜の如く辺りを暗くしてしまいました。さては魍魎(※モウリョウ ここでは「カシャ」と読まれている。魍魎=山水や木石の怪。人間の声を真似て惑わすと言われている。カシャ=火車。火が燃え盛る車で罪人を地獄に運ぶ。また、葬送時に暴風で棺が吹き飛ばされる現象をここでは魍魎、火車の仕業とみなしている)が障碍をなそうとしているのではと、御導師が総出で読経し、寺院の修験はみな数珠を繰り立て悪魔降伏の呪文経文を声高に読誦しました。葬礼中四門を警固していた武士、野送りのために参列した諸士は火屋の四方を固め、鑓や太刀の鞘を外して白刃を閃かせ、鬨(※トキ)の声をドウと上げて眼は妖しいものを見逃すまいと黒雲を見守ります。かれこれの勢いに恐れをなしたのであろうか、暴風が鎮まり黒雲も退散してたちまち先ほどの晴天に戻りました。この御葬礼に限らず、昔の葬礼には魍魎による障碍が度々あったそうです。

 昔は魍魎の妨害が度々あり、魍魎に棺を攫(さら)われた導師は出家の大恥辱としてその野場から寺へは帰らず、直ちに他国へ出奔する習慣がありました。

 或る人がこんな質問をしてきました。魍魎の姿形はどのようなものか、葬礼を害する理由は何かと。
 お答えしましょう。貝原氏(※貝原益軒。本草学者)の選書『大和本草』の獣類の中に、「魍魎は好みて亡者の胆を食らう」と書かれており、その形相は記されていませんが、獣類の項に記載されていることから獣の類であると推察されます。
 大乗院様の御葬礼の時、野において御鷹7居(※モト 鷹を数える単位)の足緒を解いて放したところ、それぞれ飛び散る中で日頃直栄様が大切にしてきた御鷹が2居、火屋の上を飛び回り炎へ落ちて焼け死んだ、という話を聞いた人は皆感涙し袂を濡らすそうです。

 大慈寺にも御霊屋が三つあり、右方に大乗院様、中央に光徳院様、左は松晃院様の御霊屋となっています。観照院様(※24代義論公)以来御霊屋を止め、代わりに御石碑が建て置かれました。それから数十年を経る間に段々と石碑の数が増えたため、松晃院様・光徳院様の御歯骨が入った二つの御箱を大乗院様の御霊屋に遷し置かれ、お二人の御霊屋はお取り壊しとなりました。
 上記の通り御棺焼き場の印塚も御石碑も数多になり、当時の人でさえこれはどなた様の御塚であると確かに覚えている人はいなかったようです。御石碑に彫られている御牌名の文字は末世までも残るのでしょうが、後世に至り御塚・御石碑の文字がはっきりしないのではと疑う人もあるかと思うので以下に記します。

  観照院殿   御当家24代義論様
  陽徳院殿   25代利戡様
  寿量院殿   (からかね地蔵) 義論様の御袋様北九兵衛殿御息女様
  常穏院殿   利戡様の奥様南部大膳太夫重信様御息女
  定凉院殿   26代信有様
  線針院殿   御同人様の奥様山田大学様御息女
  正中院殿   27代信彦様先の奥様七戸外紀様御息女
  清光院殿   御同人様の後の奥様野田源五左衛殿御息女
  本浄院殿   28代義顔様の奥様信有様御息女様

 
 卒塔婆が建つ土壇は、御当家21代清心尼様の御廟所である興光寺村の大慈寺にあり、近年御霊屋場に遷し置かれました。
 古い説では、清心尼様は遠野城において御遠行されたといいます。詳しいことは以下の通りです。直栄様が伊達領との境を御巡見するため、恒例の御手回の近侍と共に遠野においでになられた頃に、清心尼様は御養生も叶わず御遠行されました。大慈寺は興光寺村にあったため興光寺内の寺院で清心尼様は御葬送されたとのことです。この古説の虚実ははっきりとはわかりませんが、私は、昔から遠野で火葬した際に立つ烟気を早池峰権現が忌み嫌うとされ、その煙によって参詣する人も穢れることから3月から9月までは火葬を固く禁止するとの風説があったことから、清心尼様は6月の御遠行であったため御尊骸は御火葬ではなく、御土葬にされたという可能性を考えました。御尊骸を御火葬した場所が志和佐比内にも遠野にも無いからです。

円明院(柵の外に在り)  信有様之後奥様
 御家士中居林金右衛門の娘。女中奉公中に信有様の奥様が御遠行されて以後、信有様に召し仕え御子様がお生まれ になったため、後奥様と直された。本浄院様の御実母。
以上。

瑞応院寺内の御石碑
亀徳院殿   信有様の御実母様。赤沢班左衛門殿の息女。
寒林玉英   利戡様御妾腹の御息女様御早世。
 以上。

【葬送儀礼‐その2 火葬】
一  他所ではどうか存じませんが、遠野では昔、3月から9月までは早池峰の神威を恐れて火葬を禁じただけでなく、火葬可能な時節でもその烟気が井戸の中に入ると水神を穢して冥罰(※神仏が下す罰)を蒙るとされていました。そのため、寺院に近い家々は井戸に蓋をするという話を私が若い頃に聞きました。
 これは、神国の遺風がこのような遠い辺鄙な場所には今以って残っているからだという先哲の語りがあります。また、仏道の教えを守れば亡者成仏の菩提になると固く信じた古の人々は、永い別れを悲しみ嘆きの涙はこぼしても、死体が焦滅する火葬の様子を見ても少しも悼み憂う様子がなかったそうですが、10月から2月まで火葬にするこの風俗が今、段々と変わってきています。
 最近の人々は心が弱くなったのでしょうか。死んで心を持たない空虚の骸に対しも、恩愛の執着が深い父母妻子・兄弟の身体に火をつけて焼亡させ、灰塵となる有り様を見ることは遺族にとって耐え難い哀傷の気持ちが表れるようになったのです。元禄の末から徐々に、仏法の作法を犯し四季問わず土葬する者が一人、二人出てきて世間の習俗が現在のように移り、火葬の煙が絶えた世の中へと変わりました。
 貞享年中の頃までは死骸歯骨を埋めた証として、冥堂と称した小さい堂を建てることもありました。また石塔も稀に建てられ、これを建てる財力がない人は卒塔婆を建て、松・杉・ヒバなどを植え置く場合もあったそうです。冥堂が早く朽ち果てるのは亡者の成仏が早い証拠であるとして、余財がある人はわざと粗雑に建てて、壊れてもまた立て直すことはせずに、その跡に小松・小杉を植えていたそうです。私が10歳前後までは、古い冥堂が朽ちた跡に木の残骸を見たことがあります。
 元禄の初め頃から冥堂を建てる習慣はなくなり、皆石塔を建てるようになりました。昔の石塔は台の石と石碑を薄く長く建てていたため、地震或は氷が解ける春になると石碑は台から抜けてしまい、倒れて砕けることも多かったそうです。私が若い頃、寺院に建てられた石碑の数は現在の3分の1ほどであったため、廟所には空地も見受けられました。いずれの寺院も今は少しの隙間もないほどに石碑が建っているのは尤もな道理と言えます。私の年を顧みて考えれば空地が多かったのは65,6年前の事であり、その間に執り行われた亡者の葬儀は一つの寺で何百人にもなるでしょうから。今から2,30年も過ぎれば葬る場所がなくなり、往古のような野葬・水葬の風俗に立ち返るかもしれません。

【葬送儀礼‐その3 黄龍】
一 こんな質問がありました。どこの葬礼でも天蓋(※導師・仏像の上にかざす きぬがさ)がついた黄龍がありますが、遠野においては黄龍が除かれ青・赤・白・黒の四龍ばかりで葬礼が執行されます。なぜでしょうか、と。
 お答えしましょう。御当家13代河内守政経が御卒去された時、御葬礼場において福師右馬之丞が黄龍附きの役人である横井久三郎をかねてからの遺恨を晴らそうと斬り殺し、その場で自害して大騒動となりました。この軽からざる不調法により、福師殿の先祖は実長様の御代から召し仕えていた由緒ある格別の御譜代家でしたが、名を継げず御家が断絶してしまいました。これ以来、御当家の御葬礼は御家中共に天蓋附きの黄龍は用いられず、直栄様が遠野に御移りになってから仕えた新参の家においてもこれは同様であったと申し伝える古説があります。

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