mark 【口語訳遠野古事記】金円山(相模藤沢清浄光寺末寺)常福寺(95石)


一 当寺は御当家(※八戸家)7代薩摩守信光様が、正平22年、甲州において神ノ大和守(※甲斐国神郷の領主)を撃退し御帰陣後、新寺を甲州・神郷に草創しました。西沢山神郷寺と号し、時宗の浄阿(後に覚阿と称す)を開山の祖としています。同8代薩摩守政光様が甲州から八戸へ御引越しの時、この寺を御誘引し、居城の近所に置きました。(この寺は根城の向いにありました)寺領を100石寄付されたそうです。その後、山号を海浮山仏浜寺と改称し、その後また、金円山成福寺と称しました。以上のような度々の改号の子細は、お寺の縁起にあるといいます。
 遠野に引っ越して以後、寺号の「成」の字を「常」に改め、常福寺と書き直しています。直栄様が遠野に引移しの節、横田のお城の御祈祷のため直栄様より1日先に東善寺と一緒に八戸を発足しました。遠野へ着いた最初の寺場はどこであったかわかりません。寺領は30石で、その後度々加増され、合計で95石だそうです。
 門前の念仏堂は前々からあったものではありません。当寺の18世利天和尚が享保元年の春に始めて建立しました。翌2年3月に時鐘を造立し(撞く時間は朝の六ツ(6時)から夜の九ツ(午前零時)まで)、同6年10月に1000日間の常念仏(※絶え間なく念仏を唱えること)供養が終了しても、寺鐘は変わらず撞かれておりました。(宝暦5年の大凶作以来、世間の困窮によって続けるのが難しく、朝六ツから夜五ツ(午後8時)に限り鐘を撞きました。)
 延享元年6月中旬、遊行51世賦存上人が遠野に御到着の時、この念仏堂へ慈光院と御名号を下されました。その写しは次のとおりです。
  南部遠野慈光院開山興徳院覚阿利天和尚
 大福之六字名号
  遊行51世他阿上人賦存令授与之者也。
 このような御免許でしたが、新寺造営が禁止されていたので院号を唱えることはありませんでした。
 こちらは時宗のお寺です。

【福聚山(加賀金沢宗徳寺末寺)大慈寺(70石)】
 当寺は御当家(※八戸家)9代左近将監長経様の御代、応永18年、御嫡家の南部大膳太夫守行様が秋田に御出陣の時、加勢のため長経様の代理として御子(実は弟)の修理亮光経様を遣わされました。その御帰陣後、八戸の松舘村に新寺を御草創し福聚山大慈寺と号し、曹洞宗の沙門(※僧侶の意)宝山正珍和尚が開山されました。寺領は100石寄付されましたが、その後しばらく住持がおらず廃寺になりかけた時、御当家14代但馬守信長様の御三男大樹正棟和尚を住持に据え、この方を当寺の中興開山の人と称しました。
 直栄様が遠野に御引移りの時、当寺も直栄様の後について引っ越してきました。初めは駒木村海上にあった住職のいない空き寺に引き移り、寺領を50石寄付されました。(寛文年中さらに20石加えられました)
 当寺は応永18年(1411年)から寛永4年(1627年)まで百十余年(※誤記。実際は二百十余年)、八戸の松舘に在ったため世の人は、寺号を言わず松舘とばかり呼んでおりました。そのため、八戸御支配帳にも遠野に移った寛永11年の御支配帳にも松舘と記述があり、大慈寺とは書いてありません。その後、興光寺村の廃寺跡に引移りを仰せ付けられました。(駒木村の寺跡へ一明院という山伏が引移り、その子孫が今も居るようです)大慈寺が興光寺村にあった時、清心尼様がお亡くなりになりました(正保元年6月4日)。その時の御葬送の御廟所が今もここにあります。その後、今の寺場へ引移りを仰せつけられたのであります。
 享保9年9月22日酉の刻、当寺御仏壇の屋根から出火し、本堂・庫裏・土蔵・衆寮・回廊・山門は残らず焼失しました。このため、本尊・仏具、殿様方の御位牌・大慈寺の旦那方の位牌・什物の家財、雑具もことごとく焼けてしまいました。このような中、御仏壇の前に在った過去帳は、観月という小僧が手に持って立退きました。その他の書籍は火災を逃れ残ったものもありました。御霊屋並びに隣の寺には類焼しませんでした。同月28日より庫裏の普請工事が仰せ付けられ、10月19日新築の庫裏に移徒(※ワタマシ 転居のこと)、同13年3月山門が御建立され、同14年春に本堂の建築が命じられ、7月8日に御本尊が入りました。

【貴福山(遠野大慈寺末寺)対泉院(30石)】
 寺領は家老・新田殿からの寄付であります。古老の説に、桜馬場の左傍の丸馬場向かいの畑は当寺が八戸から引っ越してきた初めの寺地跡です。その上の山の中段に死者を埋葬していたため、寺山と称したのであると伝えられています。60年余り前までは髑髏や人骨が多くあり、私も若い時これを見たことがあります。
 思うに、寛永4年に八戸から引越した時、以前からこの場所にあった空き寺に当寺が移し置かれ、同17年桜馬場普請の節、今の寺場へ引移しを仰せ付けられたのではないでしょうか。寛永4年から17年まで年数は14年です。その間に晒し骨がたくさん有るはずもなく、当寺が引移る前の寺に葬られた死者の骨であると思われます。寺山の上に経塚を築き置いたのも以前の寺があった頃の住持の時と推察されます。

【宝林山(同断)柳玄寺】
 古老の説に、当寺は御城代持のころから柳玄庵と称し、今の会所(※町奉行が所管し町人の訴訟や犯罪人の判決などを行った役所)屋敷あたりに小さな庵としてありました。大慈寺が遠野へ引越して以後、その末寺になり柳玄寺と名前を改め、今の寺場へ引移ったのであると伝えられています。
 当寺へ往来する通路は新町のはずれ、橋際の左側より川端に在ります。宝暦4年戌7月24日、来内川大洪水の時に往来の道が欠落したので、川向の大慈寺門前の道を通路にしておりました。同13年未の春、当代の住持が古通路の再興を願い上げ、往来の道が前のように普請されました。門前の小橋は大慈寺への通路で、前は丸木の二本橋が架け置かれていたところ、宝永年中、大慈寺の住持である栄禅和尚が手軽な板橋に架け替えました。

【久渓山(同断)長松寺(鵢崎村)】

【瀧福山(同断)宝泉寺(志和佐比内村)】
 当寺は佐比内村舘前に以前からある小庵です。寛文元年7月25日、直栄様の奥様がお亡くなりになり、御牌名を松晃院殿と称しました。同村吉沢にて御尊骸を火葬し、その場所へ同年10月舘前の小庵を引移し、宝泉寺と号すよう仰せ付けられました。その後、直栄様・義長様の御尊骸の焼場もその近所であったため、御掃除料として二人扶持を寄付されています。

【連峰山(東山大原長泉寺末寺)常堅寺(土淵村)】

【深沢山(遠野常堅寺末寺)慶雲寺(上佐比内村)】

【滴水山(同)曹源寺(板沢村)】

【天英山(同)喜清院(青笹村)】

【久沢山(同)光岸寺(栃内村)】

【清水山(同)西来院(平清水村)】
 古説に、当寺の寺領5斗1升1合は昔遠野殿(※阿曽沼氏)時代に平清水平右衛門が寄付して以来、絶え間なく続いてきたものであると伝えられています。寛文年中の住持は鹿角の御給人(※土地を給せられた武士)花輪内膳殿末子ということです。利直様の御代、鹿角郡に御用がありお出での節、内膳殿の居宅を旅宿になっての御逗留中、亭主の娘が御添臥(※ソイフス 人のそばに寄り添って、ともに寝る)したところ懐胎し臨月に至りました。御側衆にこの次第を内々に申し上げますと、男子でも女子でもその方の手元に差し置きしばらく養育を頼みたいと仰せられました。
 男子がお誕生になりこのことを申し上げると、利直様は御幼名を彦六郎様と命名されました。これにより当時の世の人は花輪若公とお呼びになったそうです。ご成長し花輪彦左衛門重政様(後に重信と称せられる)とお名前を改め、御別家になる際は知行200石の他に現米280駄、盛岡の下小路丁に御屋敷をいただきそこへお引移られました。
 その後、太守山城守様の御代、慶安元年2月、御家老の七戸隼人殿が病死し、家督を継ぐ子息も無かったため、残された知行2,300石を彦左衛門様が相続するよう仰せ付けられ、名前も七戸隼人様とお改められました。寛文4年9月、太守山城守様が御卒去し、残された10万石の内8万石を以て重信様に南部29代として御家相続することが仰せ付けられ、従五位下、大膳太夫が御叙爵されました。
 重信様が御幼年花輪にいらした頃、内膳殿末子の久助殿は同じ年齢で御一緒にお育ちになり仲睦まじい友人でございました。重信様が盛岡へお出でになった後、久助殿は出家され数年関東を廻って帰国し平清水西来院の住持となっておりました。重信様は下小路丁の御屋敷へ引移った頃から、叔父坊である久助殿の所在をお尋ねになっておりましたが一向に様子を知ることが出来ませんでした。
重信様が南部の太守になられて以後、久助殿は遠野平清水村の小寺の住職であることを聞き、盛岡に呼び御対面され、たいそうご満悦でした。重信様は御城近くに新寺を造営し久助殿をこちらに移し置き、度々逢いたいと望まれましたが、新寺を造ることは幕府が禁止しており、重信様の思いは叶いませんでした。
 そこで重信様は「盛岡御城下の寺院のうち、どちらでも望みの寺の住職になりませんか」とお聞きになりましたが、久助殿は「御懇情の思召しは有難く存じますが、遠野でも遠野城下の2、3の寺院から相続してほしいと頼まれています。しかし、城下で諸士に会うと手膝を折る詰開き(※屈従する、かしこまった立ち居振る舞い)を面倒に思い相対しておりません。なおさら盛岡城下へ罷り出るという望みは一切ないので御遠慮したい」申し上げられました。すると重信様は「ただ今、住職の寺には寺領が有りますか」とお尋ねになりました。久助殿は「前々から5斗1升1合です」と申し上げると、「その寺領だけではなにかと不自由でしょうから50石寄付しよう」と御意をお示しになりました。それに対し久助殿は「草庵同然の小寺にただ一人の身を養うのにいささかの不足も御座いません。寺領を拝領しては百姓を扱う世話に気苦労し却って迷惑に思われます。これも遠慮したい」と申し上げると、重信様は「そうであるなら、現米を遣わしましょう。下男を召して自分でやっている薪仕事や、炊事の疲れを取り休んでは」と御意を示されました。久助殿は「重ね重ね御親切の思召し有難く存じますが、お米を頂いては盗賊を招く気遣いの種となるのでこれについても遠慮したい。ただ、今、居住の在郷にて土旦那(※檀家の百姓たち)を友とし、寝たり起きたりして窮屈な礼儀作法のない、無遠慮の雑談を肴にして差しつ差されつ心のままに濁り酒を飲む楽しみは、50石の寺領より遥かに勝る大きな喜びです。このほか、御用も無ければお暇をいただきたい」と申し上げ、旅宿へ戻りました。そして、即日盛岡を出立し平清水へ帰られました。以後も度々重信様に呼ばれましたが、久助殿は「病気、病気」と申し上げ盛岡には来ませんでした。そして天寿を全うしたのであると伝えられています。

【岱岩山(遠野喜清院末寺)徳昌寺(附馬牛村)】

【照牛山(稗貫大興寺末寺)光明寺(綾織村)】

【宮護山(遠野光明寺末寺)善正寺(上宮守村)】

 以上は曹洞宗の14箇寺です。

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