mark 【谷行山[平倉村大寺観音]細山寺】


 村の老人が申し伝える古説には、この細山寺の草創は承和元甲寅年(宝永6年まで遡ること876年)で、観音像は慈覚大師が1木から7体の十一面観音を自ら彫刻して遠野の7ヵ村へ安置なさったうちの1体であるそうです。往古は山の頂上に御堂がありましたが野火にて焼失(年号月日不明)し、この時尊像が炎中から飛び出て留まった所が後に境内となりました。つまり今の大寺です。この時尊像が火傷したため、その後御堂を再営する際にこれを秘仏として内陣の奥に納めました。赤羽根源七があらたに十一面観音の尊像(自在山東善寺の快翁法印作)を安置したといいます。社領の1石は福田氏から寄附されました。
 こんな質問がありました。右の3ヵ村(※小友・鱒沢・平倉)の観音が慈覚大師によって彫られた年号を年代紀で見比べると、細山寺の承和元年から福瀧寺の仁寿2年までの年数は19年でした。仁寿2年から長福寺にいた斉衡元年までが3年で、合わせて22年間あります。この長い年数の間、大師が遠野に御逗留されたとは思えませんがどう思われますか、と。
 お答えしましょう。3ヵ村の観音堂はいずれも焼失したと申し伝えられていますが、御堂草創時の棟札もその時焼亡してしまい、今に残っておりません。里人が語る年号は、後世に大師が存在した時代から考え推察された年号を書き出して伝えているのではないでしょうか。大師の一生年数が書かれた古記には、慈覚大師は延暦13年に下野国の都賀郡で生まれたとあります。伝教大師の御弟子となり仁坊と称しました。承和5年に入唐して10ヵ年在唐、天台宗の奥義を極め同14年に帰朝。嘉祥年中(4年に改元)に諸国を巡行して名山霊区に堂塔伽藍を数多く建立されたそうです(遠野七観音もこの時であろうか)。仁寿4年延暦寺の座主に任ぜられ、斉衡3年、天安2年、貞観6年正月14日、71歳で入寂されました。同8年に清和天皇から慈覚大師の諡を賜ったとの記述を見ることができます。この古記と、3ヵ村にある観音の年号を照らし合わせてみるとなお疑わしくはありますが、今は確固たる証拠が掴めないため7ヵ村の観音はいずれも遠野の旧跡と心得、以上の古記を疑わずに考えてよいでしょう。
 また、こんな質問もありました。世俗の説に、遠野七観音に1、2、3の順序があるといわれていますが、その次第をお聞きしたい、と。
 お答えしましょう。1、2、3の順番は大師が七観音を造立した時、初・中・後によって定めた順序です。西国三十三所の札を打ち、巡礼の時に御堂ごとに相伝されている和歌に節を付けて唄って札を納めるように、遠野でも七観音への参詣時には和歌を唄い、札を納める7首の歌を慈覚大師が詠じて置かれたのだと申し伝えられています。その7首の和歌は以下の通りです。

  一番山谷ノ寺
 おく山やはちすか沢の観世音仏の誓ひあらたなるらん
  二番松崎ノ寺
 川つらや末まつ崎の観世音余にはもらさし六つの誓ひを
  三番平倉ノ寺
 細山や野もひらくらの観世音かけてそ頼むのりの此道
  四番鞍迫ノ寺
 深山路やいつくなるらんくらま寺仏の誓ひ頼まぬはなし
  五番宮守ノ寺
 平沢や月見ん里の観世音法の蓮はいつも絶せし
  六番栃内ノ寺
 大槻やいま辺の河の流れにも極楽へ行く誓ひなるらん
  七番附馬牛ノ寺
 縄洞やさゝべの里の松風に萬の罪もきえ失る哉

 またこんな質問がありました。7首の和歌の題にはいずれも寺とあり、山谷・鞍迫・平倉以外の山号があると思うがいかがか、と。
 お答えしましょう。4ヵ村の観音にはいずれも古い棟札はなく、里人の申し伝える古説にもありません。これにより管理していた別当の寺院の有無もわかりません。4ヵ村の観音の様子は以下のように申し伝えられています。

【松崎観音】
一 松崎の観音は里人の説によると十一面観音で、慈覚大師が彫刻された尊像であるそうです。左の御手にお持ちである小さい観音の正体は以前からここにおられた観音様で、大師作の尊像に持たせたものと伝えらえています。古代の棟札も縁起もなく、ゆだねた由緒も不明です。社領2石のうち1石は前々からの御領主からのものです。もう1石は松田氏が寄進しました。

【宮守観音の事】
一 宮守の観音にも古代からの棟札はなく、別当も度々替わっているため由緒の語り伝えもありません。

【栃内観音の事】
一 栃内の観音は里人の説では、本尊はいつどこへ紛失してしまったのかわからないそうで、御堂も跡形もなく倒壊しており棟札もありません。そのため由緒は一向に不明で、御堂の旧跡はここであると伝えられているばかりです。元禄14巳年、村の百姓達が寄合い御堂を再興しました。享保5子年、回国している仏匠がこの村へ来て村の長達に本尊の造立を勧めました。志ある者たちが集まり、馬頭観音の尊像を彫刻して安置したそうです。

【附馬牛の観音】
一 附馬牛の観音は、里人の説には遠野七観音のうち7番目であるとばかりが語り伝えられています。往古の御堂が零落し破壊した材木でしょうか。朽ちて苔むした木の端が、御堂の古跡に生え茂っている草むらのそこかしこに散乱しているのを幼年の頃見た覚えがあると、老人から話を聞きました。観音の尊像がいつどこへ紛失したのかは不明で、また観音堂の古跡という名だけが残り、その由緒は一向にわからないのだそうです。享保年中、村の百姓達が寄り合って御堂だけ再営すると、元文年中に、浄法寺村の六部が参詣した際本尊が無い様子を見て、村の長達に勧めて仙台の仏匠に尊像を造らせ安置しました。

【白鳳山養安寺】
一 当寺は往古から数十代この村にある古跡であるといいます。廃寺の様子は智光山善明寺の由緒の記に書かれています。同村の観音は、養安寺開基以前からある古跡のため、当寺の本尊ではありません。

【東禅寺村旧寺の事】
一 東禅寺村の旧寺の古跡は、高僧で名高い無尽和尚が開いたとされています。この無尽和尚から何代後の住持だったでしょうか、今の常福院の寺地へ引き移り、それ以降また三戸に引越した時、跡となった寺を妙十山常福院と号しました。東禅寺領のうち20石はこの寺に寄附したそうです。
 ある人からこんな質問がありました。旧寺の古跡に南部様のご先祖様の石塔、並びに殉死した侍衆の石塔が往古からあると伝えられています。御石塔は古く、今は文字も見えないため年号もわかりません。何百年ほど前からある物なのでしょうか。遠野は、文治年中から慶長の初め頃まで阿曽沼家が数十代にわたって相続してきた領地で、南部様の御領内のではありません。それにも拘わらず当村に御石塔があるというのは不思議です。なぜなのでしょうか。
 お答えしましょう。虚実は不明ですが、私はこのような古説を聞きました。足利将軍家の時代、南部家13代大膳太夫守行様は御老齢ではありませんが理由があって入道になられ、御法号を大勝院祖山禅高とされました。それ以降応永18年6月、奥州の国司職に任じられたそうです。当時の奥州武士は将軍の御下知に従わず、各々の武力で互いに近隣の郡や村を奪い争って矢が飛び交う時代でした。その騒乱を鎮めるため、守行様が遠野へ御出馬され、国を巡回し、戦をやめるよう御下知を下されました。閉伊郡の海辺をお通りの時、釜石から大槌に続く坂で突然病にかかられ、そのまま麓でお亡くなりになりました。御尊骸は近くの庵へ御運びしたそうです。その頃の里人の密説では、国司のお通りを狙った逆賊が放った流れ矢に当たって御卒去されたが御頓病としたと申し伝えている古説があります。御尊骸を運び入れた庵は、今の曹洞宗光岸寺です。御発病された坂は世俗では御病坂と伝えられており、御卒去の場所には周囲5、6尺ほどの杉が1本あります。

 南部家33代の太守、大膳太夫利視様が元文年中に閉伊筋へ御出の節、御覧になられた杉の四方へ柵を置くようにと仰せつけられ、今では柵がある、とも伝えられています。

 【守行様御最期の御遺言により御尊骸を金沢へ送り、遠野東禅寺の無尽和尚を招いて御引導の勤行も済みました。御火葬を終え、守行様の御歯骨ならびに殉死衆の骨を、和尚が自ら拾ってお供の役人へ渡しました。遠野へ帰り、寺中の境内に御墓を築いた印として例の御石碑を建て置いて回ったそうです。応永18年から現在の宝暦13年まで、年数は348年ほどです。御位牌は御尊骸を運び入れた大槌の庵にありましたが、その庵が火事で焼失した際に近所のお百姓(洞の兵部先祖である)が御位牌を取り出し、自分の家にしばらく置いていたそうです。その後、自分の宗旨である金沢村臨済宗の庵へ持って行き安置しました。そしてその庵の寺号に御牌名を用いて大勝院と称しました。元文年中、太守様が閉伊へ御出になった時、大勝院にこの御位牌があるとお聞きになって寺領10石を御寄附されたと聞き及んでおります。
当世之寺院本寺山号

  
【自在山[大和長谷小池坊末寺]東善寺[100石]】
 当寺は、八戸御家4代又次郎師行様の時代である建武元年に、甲州において新寺を御草創なされ師建山東善寺と号しました。師行様の御実家である東氏から、御舎弟尭養法印を開山の祖として据えられたそうです。
 御当家8代薩摩守政光様の御代である明徳4年、甲州から奥州八戸へ御引き移りの時、当寺をお誘い引き寄せ、御居城(根城と称す)を御廓に差し置いて寺領100石を御寄附されました。御当家13代河内守政経様の時代である康正3年4月に田名部へ御出陣されて以後、訳あって山号を自在山と改号しました。
 直栄様が八戸から遠野へ御引き移りになる時にも、横田の御城をご祈祷のため直栄様が御発駕されるより一日早く御出立になりました。遠野へ参着すると、まず沢里殿の屋敷から西方の小さい平地へ仮道場の小庵を建てて引き移り、寺領を100石寄附され、その後今の寺場へ引き移るよう仰せつけられたそうです。小庵の古跡を、世俗では東善寺丸と申し伝えられています。寺の書院前の庭を流れる遣水は、引き移りの時からあるものではありません。八戸から引っ越して4代目の住持である快翁法印の代に、寺務に余裕がある時に下僕である喜作と共に法印自ら鍬鋤を取り、掘った土を簣(※アチカ 竹で編んだかご)に入れてこれを担ぎ、山を築き立てました。その普請を4、5年かけて漸(ようや)く遣水が完成しました。ここの始めには瀧口から流れの末まで深く掘って水を貯え、暑気の季節は小船に棹さしと御客には酒興も御馳走されたそうです。この話は、喜作が老年に至ってそう語るのを私が幼い頃に聞きました。

【早池峯山[大和長谷小池坊末寺]妙泉寺[200石]】
 当寺の寺領200石のうち、文安年中に遠野の前領主・阿曽沼氏が早池峰山に社領を寄附され、その後、田3千刈を紺野新左衛門が寄進しました。この石高を合わせると135石ほどになるのでしょうか。慶長12年に、南部信濃守利直様から以前のように135石御寄附をいただき、その御印紙もあるそうです。直栄様が遠野へ御引き移られる時、社領も12,500石の内に入れられたため、その後また35石と現米30石を寄進されました。

【六角牛山[安房宝珠院末寺]善応寺[95石]】
 当寺の社領の内、20石は遠野の先領主の時代からあるものだそうです。直栄様が御引き移りになられてからもこれに倣い20石いただきました。その後25石を追加で御寄進なさったそうです。寛永21年には、出羽の湯殿山に20石の社領も当寺を通して寄進されました。慶安5年は山王に30石御寄進、合わせて95石となりました。

【自証山[遠野東善寺末寺]成就院[20石]】
 古説に、この寺がある場所は御城代時代の頃までは稲荷神社の別当である万蔵坊という山伏が住む屋敷だったとあります。直栄様が御引越されて以後、新田殿から山伏を余所へ屋敷替えさせ、当寺をここに移し置いたと申し伝えられています。寺領は新田殿の寄進です。また一説には、当寺の麓に小谷地があり、世間では元風呂と称されています。これは新田殿の家臣の風呂屋跡であるそうです。
 以上の4寺は真言宗です。

カテゴリー 口語訳遠野古事記