mark 【御城廻並御城下近郷之神社】


一 御本丸の八幡宮は、遠野の先領主(※阿曽沼氏)の時代に勧請されたのか、直栄様が御引き移りになる際に御勧請されたものか、はっきりした説は聞いておりません。
一 沢里殿の屋敷の門前脇に大藤があります。古い説には、遠野殿時代から小さい御堂があるとのことですが何の神様であるかは存じません。世俗で言われていることによると、釜石浦の尾崎明神を勧請したため、尾藤明神と呼ばれてきたそうです。このことから、前々から尾藤明神はここにあり、社が壊れた時に再建されることなく差し置かれていたのは、もともと社がなく古木の藤を御神体として拝み奉っていたから御堂が再建されなかったのでしょう。
 また一説には、御本丸の鰐口に三島明神という銘があります。これは、以前尾藤の御堂にあったものをここに掛け置いたものだと申し伝えられています。利戡様の御代に新しい鰐口を御奉納した時、古い鰐口は御台所役人が預り、御味噌蔵に置かれたそうです。
 さらに、毎年東善寺から三島の経文・陀羅尼を差し上げているのは、御先祖の方が八戸にいらした時代に三島明神へ御願い立てをし、その旨を東善寺に仰せ含めると成就したことから御信仰が厚くなられています。毎年三島への御祈祷を仰せつけられ、その慣例が長く残り直栄様が遠野へ御引越しされてからも、御本丸近所へ三島明神を勧請したといわれています。
この両説の虚実は明確にはなっていません。宝暦10年の夏に以前からある大藤が、絡まっている古い大木が朽ちて倒れ藤も根から折れ倒木してしまいましたが、傍から根が生えた藤は残っております。直栄様が遠野へ御引き移り以来、神社へ御参詣される時は、代々尾藤にも御参りされます。

【多賀の社のこと】
一 多賀の社は直栄様が御立願なさり、正保4年に初めて御勧請されたそうです。その頃の社地は今の社地から堤へ上る小坂の右側にありました。その小さい祠は零落してしまい、義論様の時代である元禄5年の秋、以前から社地を引き下げて地形を広げ、御再建なされました。御坂も古い坂よりも右の方に寄せ、及河(川)屋敷の向かいに逢坂を作りました。鳥居も建て置かれ、享保年中には御坂を旧坂のように改められたそうです。。

【各稲荷神社等の事―経ヶ沢・成就院天神堂・坂ノ下丁御用屋敷裏・中舘四郎屋敷】
一 経谷ヶ沢の稲荷は、古説には遠野殿時代からある社だと申し伝えられています。慶安年中までは社の麓に家屋敷がありました。その頃住んでいたのは西村吉左衛門です。その並びの隣家の子孫をはじめ信仰していた人々は、京都にお稲荷様の神位を願い上げました。正徳元年10月、正一位大明神の宣旨宣命をいただいたそうです。
 こんな質問がありました。この社地を経谷ヶ沢と呼ぶ由来はなにか、と。
御答えしましょう。私もその由来を知りませんでした。近年別当をしている金剛院という修験者はこう話していました。正徳年中に御堂を再建する時、今ある社地では狭いためかつて経塚があった場所をそうとは知らずに広げました。すると、河原の小さい石に法華経の文字を一字ずつ書いてある石が数多く発掘されました。そこでここは経塚であると思い、その小石を残らず拾い集め、社の背後に埋めておいたそうです。
 いつの時代にここに経塚を築いたのでしょうか。昔の人の語り伝えにもなく、以上の通り経塚の麓にある沢のため、経ヶ沢とされてきたのではないかと思います。昔の話では、社の麓に限らず今の西丁までも経谷ヶ沢であるといわれていたそうです。
一 成就院寺内の上にある山の天神堂は昔からあった宮地はありません。新田殿の家中に当時、山上友右衛門という家臣がおりその屋敷に誰が勧請したのか願主の名もわからない天神の宮がありました。そこに、梅、松、桜の古木があるのを私が幼い頃に見ています。これは新田弥市郎殿から4代目の小十郎政武殿が、享保5年6月に、西丁から今の社地へ遷宮した時の小祠だそうです。
一 坂ノ下丁の御用屋敷裏にある稲荷は、直栄様が遠野へ御引越した時、この屋敷を作田主水に下され、その頃勧請された社だそうです。主水の子孫は小身であるため御屋敷御取り上げ、数年後に新田市郎兵衛の代となって元町丁へ屋敷をいただき御引き移りになってから、先祖の由緒を慕って元町の屋敷に新たに稲荷社を勧請したそうです。享保3年の春、御官位の御願いを申し上げると、吉田様(※吉田神社)の宣命ではなく京都の稲荷御殿預正官から許状が来ました。その文面は、「稲荷大神安鎮之事 享保3年歳次戊戌3月21日 正官御殿預 竃」以上の通り書かれていました。
一 八戸27代信彦様は御隠居以降、この屋敷におられます。明和2酉年、稲荷御官位の御願いを京都へ仰せ遣わせ、ついに同年8月正一位大明神の尊号が到来したそうです。
一 中舘彦四郎屋敷の稲荷は直栄様が遠野へ御引き移りの際、この屋敷を松崎大学(※家老。松崎、新里村を知行地とした)へくだされ、移り住んだころに勧請しました。大学家は断絶してしまいましたが、他氏の子孫は今もって参詣するそうです。
一 東善寺内にある疱瘡神は、直栄様の時代に御子様方へ御祈祷するために御勧請し(その時の御堂は寺の背後にありました)、社領は10石(現米)をご寄附されたそうです。正徳5年の冬、常穏院様は信有様が御疱瘡を患われた時に御立願し、御快復されたことから、翌年に今の場所に新しく御堂を建立し御遷宮なされたそうです。その後、福田甚五兵衛が鞘堂を造営しました。
一 大日堂は、直栄様が出羽湯殿山への御立願を善応寺の快盛法印に仰せ含め、成就したことから、寛永21年10月に湯殿山へ社領20石を善応寺へ御寄附なされたのです。そして義長様の時代である貞享2年、湯殿山を御勧請なされ大日堂を御建立されました。義論様の御代、元禄の初め頃に拝殿を御造営、毎年3月6日から8日まで3ヶ日例祭を行いました。同12年に義論様が御遠行されて以降は祭礼が絶え、利戡様時代の宝永3年から毎年3月15日に祭礼を行うよう申し付けられました。御坂の石壇は宝暦五年の春、新町上横丁の三右衛門が発起人となって同志の人々が造立したそうです。
一 山王様は義長様が御立願成就し、そのお礼のため慶安5年の春に御勧請なされました。社領は30石を善応寺へ御寄附され、初めの頃の社地は大日鳥居の左側に御堂があり、利戡様が治めていた宝永年中に今の場所へ御遷宮されたそうです。

【来内の明神、遷宮と三ヶ月堂の事】
一 来内村の神明(※伊勢両宮神社)は、古い説には遠野時代に勧請されたものと申し伝えられています。直栄様が遠野へ御引っ越し以後二度ほど御宮を再営なされました。利戡様時代の正徳元年、御城下ならびに近郷の人々が別の場所への御遷宮を願い上げたので、今の場所への御普請を仰せつけられ、御宮、拝殿、鳥居を御建立されました。鳥居の前に別当ならびに御宮境内の掃除人達の屋敷も建て、同年9月5日に来内からの御遷宮が叶いました。祭礼は毎年7月16日から18日までで、昼夜にわたり神楽や獅子踊りが行われます。その後、16日・17日両日に祭礼を行うよう仰せつけられました。寛延4年、新町の善八を発起人として御家中や在町の同志達が神輿を奉納しました。毎年7月17日に遠野五町を廻る御供として、町の印をつけた屋体(※山車)の行列・駒乗・大神楽・獅子踊りなどが参加していましたが、宝暦3年秋の大凶作以降は、3年に一度ずつ町を廻るようになりました。この神輿は寛延4年5月7日の昼に江戸を出帆し、同10日の朝四つ時(※午前10時)に釜石浦へ御着岸したそうです。
一 六日町の裏の木ノ下に三ヶ月堂という小さい祠がありました。勧請した願主も不明で、往古からあるという社地です。その右方にある松尾明神の社は、元文4年の春に新町の両川覚兵衛(後に元智と称する)が勧請し、神輿も奉納して五町廻りも行いました。その後町廻りはなくなりました。

【欠ノ下稲荷・新張熊野・興光寺村諏訪並熊野・横田村愛宕・瀧の沢不動・加茂の事】
一 欠ノ下稲荷は遠野御城代持(※阿曽沼氏滅亡後、盛岡南部氏によって城代が置かれた)の時代である文禄年中、欠ノ下茂左衛門が知行所に勧請したといわれています。享保12年、別当並びに同志達が京都へ御官位向上のお願いを申し上げ、正一位大明神の宣命をいただいたそうです。以前の社地は場所も良好ではなかったため、この時に遷宮して御堂を再営したそうです。
一 新張の熊野は勧請した願主は不明ですが、遠野殿の時代からあるのではないかという古説があります。
一 興光寺村諏訪並びに熊野は、古説には遠野殿時代に勧請された社という申し伝えがあります。
一 横田村愛宕岩(あたご)も、遠野殿時代の勧請と申し伝えられています。直栄様が当地に御引き移られて以降、延宝二年御堂を御再営なされたそうです。地蔵の尊像と御坂の石段は、正徳6年に新町の両川覚兵衛(後に玄無と称する)が寄進しました。
一 瀧ノ沢不動は、常福寺の18代利天和尚が正徳5年9月28日に勧請しました。
一 畑中の加茂は古説では遠野殿時代に勧請された大社で、社領もあり祭礼の時には競馬も行われたといわれています。その跡は田畑となって今は名だけが残っています。直栄様が遠野へ御引越の時、この畑中村と加茂神社を共に類家勘左衛門へくだされました。その前からある御堂は大破しており、寛永17年に勘左衛門が再営したそうです。それ以降に破損した時は直栄様が延宝2年に御再営なさり、その後の倒壊は正徳2年に利戡様が御再営されました。

【宮代の八幡】
一 宮代にある八幡は、遠野殿時代に勧請され、社領も有し毎年8月15日に祭礼を行っていました。しかし、領主の遠野殿(・阿曽沼殿)が没落して以降は御城代持のころまで祭礼は断絶したと古老が申し伝える説があります。直栄様が当地へ御引越し、この話をお聞き召すと、寛永6年に社領を10石御寄附なされました。以前のように祭礼を行うようにと別当に仰せつけました。しかし、猿ヶ石川が洪水となり参詣する人が難儀しているとお聞き及びになると、寛文3年の春、今の場所に御普請を仰せつけられ御宮を御造営されました。宮代から御遷宮し、祭礼を毎年9月15日に御定めになりました。祭礼の始めに流鏑馬を行い、射手は橘甚兵衛、奉行は橘市郎右衛門、総奉行は正部家作兵衛らが勤めました。旧宮代の祭礼日である8月15日にはこれまで通り行うように仰せつけ、直栄様の御代参も遣わせました。新田殿からも御代参を遣わせましたが、それ以降御代参は取りやめとなり、新田殿の代参のみが以後も御参りしているそうです。
若宮の祭礼には御旗は一本もありませんでした。元禄の末に御慶様(※常穏院様のこと)から御旗二本が初めて御奉納されました。それから段々と御旗の数が増えていきました。猿田彦の面は、正徳年中に一日市町の六右衛門(常宇嫡子)、神輿は延享2年に一日市六右衛門(常宇嫡孫)、同六兵衛(常宇二男)が奉納しました。
毎年祭礼には馬場を御廻りになられ、元禄の初め頃までご神体はありませんでした。義論様の時代に弥陀像を御安置なされ、大鐘(冶工は盛岡に住む釜屋五郎八)を御奉納になりました。ところが、享保6年に御堂の戸の鍵を捻じ切り、御本尊を盗み取った狼藉者がいました。行方が一向にわからないため、亀徳院様が御信仰なられている弥陀(恵心の御作)の尊像を八幡の御本尊として奉納されました。すると、釜石浦の鈴木屋治兵衛と申す者が東善寺へ内々にこう願い出ました。私は八幡の本尊を奉納したいと願っており、上方へ注文したその本尊が最近到着しました。本尊並びに添神器を見ると思いのほか結構な出来でしたが、釜石には奉納するにふさわしい八幡宮がございません。そのため憚り多い御願いではありますが、遠野八幡宮へ安置奉っていただきたく存じます。この件についてよろしく御取り成しくださいますよう御頼み申します、と。
 以上の内容を東善寺に申し上げると願い出通り仰せつけられ、尊像と神器を釜石から東善寺へ送り、享保15年3月8日に御遷宮されました。先達て、亀徳院様が御奉納なさった弥陀の尊像を秘仏とし、今度新たに来た御尊体を御前になされました。治兵衛が奉納した品々は左の通りです。
 応神天皇御束帯の尊像
 三社御幡三流
 大御幣二本
 神酒鍚一対
 壇御鏡一面(台添)
 御簾一枚
     以上。

【新田・中舘・沢里三家稲荷と清水伝右衛門屋敷の三社の事】
一 新田・中舘・沢里三家の屋敷に稲荷の小さな社があります。いずれも先祖が八戸で居住していた屋敷にあった鎮守の稲荷を遠野へ御引越するときに勧請したものです。中舘・沢里の稲荷は、近年に御官位の昇進を京都へ御願いしており、補任状が到来したそうです。
一 坂の下丁の清水伝右衛門屋敷の裏に、往古から稲荷・水神・牛頭天王の三社があると申し伝えられています。古説があるばかりで勧請された年月も願主の名前もわかりません。小祠もなく数年が経つうちにこの屋敷の主がたびたび替わったため、再興する願主もいませんでした。中舘三九郎(後に覚太夫屋次と称する)がこの屋敷に住んだ時、元禄14年3月に再営され、毎年6月15日にこの天王へ疫病災除の祈願のためにきゅうりを奉納する参詣人が訪れるそうです。

カテゴリー 口語訳遠野古事記