mark 【口語訳遠野古事記】済家宗3箇寺


一 鳳徳山(盛岡聖寿寺末寺)瑞応院(60石)
直栄様の御娘おまん様が松井左兵衛殿へ御縁組なされ、慶安4年10月に御遠行した際、聖寿寺に御葬送して御位牌名を瑞応院と号されました。この菩提を弔うために承応2年に新寺を御建立し御位牌名を寺号になされ、寺領50石を寄附されたそうです。
 御当家25代利戡様の奥様は、南部大膳太夫重信様の娘御です。遠野に御出になられる時、御仏参りのために大守様方の御位牌を当寺にも建て置かれました。さらに宝永年中に寺領10石(現米)を追加されたそうです。
一 桂林山(盛岡東禅寺末寺)常楽寺(小友村30石)
 古説に、当寺の寺領のうち9斗は遠野殿家中の小友喜左衛門(知行300石)から寄附されて以来、断絶することなくあるものだと申し伝えられています。御当家26代信有様の御代、享保年中の住持である祖憧が首座の代に、29石1斗が追加で寄附され、寺領は合わせて30石となりました。
一 涼郷山(同断)長泉寺(鱒沢村6石3斗
 当寺の寺領は遠野殿一門鱒沢長門守が寄附されて以来、絶えることなくあると申し伝えられています。
 上記は済家(※臨済)宗は3箇寺です。

【浄土宗1ヶ寺】
一 智光山(奥州岩城専称寺末寺)善明寺
 御当家19代弾正直栄様の時代に、諸国を行脚している僧、浄土宗善明上人が八戸櫛引の常安寺に到着し、数日間説法をしました。諸人が大層感心したという風説を、直栄様並びに御老親薩摩守政栄様(御隠居)御夫婦がお聞き及びになられ、上人と数度御参会して御帰依の志を深められました。御居城の御近所である東善寺曲輪の向かいに新寺を御草創し上人を移し置かれ、文禄元年辰5月、岩城専称寺へ山号を名乗る許しを願いました。直栄様からの御添状は以下の通りです。

  書状にてお伝え申し上げます。さて、善明和尚と申す僧、諸国を行脚され当国に到着されました。尊院の御末山で  ある櫛引の常安寺に一時身を寄せていただいておりましたところ、その説法は奥深く信仰の堅さの至りに感心いた  しました。これにより、私の居舘の近所に草庵を修造し、善明和尚の住居としたいと思います。
  この度は寺山号のお許しをいただくべく、使者を貴寺へ差し登らせました。何卒、御芳命が我々の願いを叶えてく  ださるものであることを祈っております。
   畏れ入り謹んで申し上げます。
5月15日  八戸弾正少弼 直栄在判

   岩城専称寺方丈
  御役僧中御披露

 このように書かれ、今も専称寺にあるそうです。

 この御返簡は智光山善明寺の号を許すものであり、当寺の寺山号としました。この時に寺領を50石御寄附したいとの御申し出がありましたが、上人は固く辞退してこれを御請けしないと申し上げました。仏縁はなくとも50石の寺格を仰せつけられ、先々寺が破損した際は修理再営共に、御前が世話をすると仰せ渡されました。
 上記の通り信仰が厚い寺のため、年始端午の御礼で登城する時の御祝儀の御錫(※酒器)を献上する慣習は、遠野に引っ越してからも変わらず勤めてまいりました。義長様の時代に、義長様が遠野城に御在城で端午に登城するようにとの御触れがありましたが、善明寺の上人は病気のため登城しませんでした。またその後の端午にも差し障りがあるのか登城しなかったので、それ以降端午の御礼は御請けしないと申し上げ、年頭の御礼ばかりになったという古説があります。
 御当家の22代直栄様が八戸から遠野に御移りになる時、後から善明寺2世の雲外上人がこちらへ引っ越してきました。松崎村に白鳳山養安寺という古跡の寺があります。数十代経る間に住持がいない時もあり、虚寺となっていたところ近辺の土旦那達がこれを守っておりました。また、回国している僧が2、3年住職を務めた時もあり、30世までは全く廃寺とならず相続してきました。
 また住持がいなくなって30年ほど経った頃、直栄様は同宗(※浄土宗)の古跡と聞いて、雲外上人に八戸から移ってここに住むようにと仰せつけられました。こうして当寺31世の中興開山となり、白鳳山養安寺と号して住職を勤めました。しかし数年住持が不定の古寺であるため、破損した箇所の修理もしておらず、零落して住居にはなり難い状態でした。のみならず、横田へは猿ヶ石川の流れを隔てており、洪水時檀家が用足しする際には往来に差支えてしまいます。あれこれと御城下の近所にある寺の敷地にお願いし、今の裏町の後ろに引き移る時、八戸での山号寺号に改めるように仰せつけられました。それ以降、また今の寺場への引き移りを仰せつけられたのです。
 浄土宗の寺は上の1箇寺です。

【天台宗一ヶ寺】
一 巌玉山(盛岡大勝寺末寺)伝勝寺
 寛永年中の住持は八卦の占いが上手で、直栄様が御鷹野場で御鷹を度々飛ばせ、行方不明になる度に当寺に鷹の居所を占わせていました。
 占われた方角に御鷹匠を尋ね向かわせると確かにその場所に鷹が、据え帰ることができるのです。その御褒美に寺領20石を御寄附したいと御申し出になりましたが、住職は「大変有り難く存じます。しかし、出家の身分は全ての旦那からの施物を得て生命を養う境界にある者です。御領内の四民から加持祈祷を頼まれ、勤行の護符守札を遣わせてその初穂によって飢寒で苦しむことなく月日を送っております。偏に御前の御養い同然の有り難い御厚恩と存じております。そのため寺領の御沙汰は御控えいただきますように」と固く辞退したのです。その後、直栄様は占いの御用を仰せつけられる度に御礼として初穂を下された、という話を私が幼年の頃に老人から聞きました。
 前々から、盛岡大勝寺も当寺も行人派(※出羽羽黒系統の修験者)であるため諸人は行人を「御行」と略して呼んでいたところ、近世になって大勝寺上野御門主様の御末寺となったため、両寺共に行人という号は絶えてしまいました。
 上記の寺は天台宗1箇寺です。

【放光山(宇治黄檗山万福寺末寺)感応院(15石)】
 対泉院門前に小庵があり、庵主は黄檗宗に発心(※ホッシン 仏道に入ること)した僧で廓心主と称しておりました。庵の側に千手観音を安置した堂を建立し、数十年が経ちました。以後、利戡様の時代である宝永2年、御当家22代直栄様の御葬礼の御龕焼場の跡に観音堂、並びに庵室を移すようにと仰せつけられました。そのため裏町の背後に3間4面の観音堂と庵を御造営し、御普請も済んで引き移りましたが、新寺新庵は公儀から禁止されていたため宗門改帳には観音堂別当廓心と書き上げられています。2世仙厳代の始めまで上と同然に書き上げ、その後感応庵と書いた時もあったそうです。そしてまたそれ以降は感応院と称しています。
 しかし、放光山という山号は表だって呼ぶことを遠慮する事情があったようで、3世石雲の代に御当家27代の御隠居・栄帰信彦様の御帰依が深く、寺領を御寄附の御願いを当主義顔様に申し上げたところ、寛延2年に寺領15石を御寄附されました。
 延享2年7月19日深夜、薪小屋から出火し寺の半分以上が焼失してしまいました。火先が庫裏に移った頃、近所の人々が徐々に駆けつけたが火を防ぎ留まらせることはできず、本堂の諸仏・仏具・寺の家財・戸障子・畳等を運び出したが寺は残らず焼失しました。これにより寺を造営する際の諸材木・萱・縄を願い上げ申請し、9月下旬には普請が行えたのです。観音並びに御位牌等が安置され、寛延2年に本堂再建用の諸材木・地形(※整地)・壁土持ちの人馬を願いの通りくだされました。7月に普請が成就し入仏供養の勤行も済んだとのことです。
 黄檗宗の寺が上記1ヶ所寺です。

一 白泉山(京東本願寺末寺)万福寺
一 岩瀧山(同然)聞称寺(綾織村)
一 日晴山(同断)万通寺(青笹村)
一 久城山(盛岡本誓寺末寺)西教寺(駒木村)
 浄土真宗の寺は上記の4箇寺です。
 諸宗合わせて29箇寺です。

【八戸御家と法華宗の事】
一 ある人がこんな質問をしてきました。八戸家の御元祖である八戸南部六郎実長様は、日蓮宗への御帰依が深く、甲州身延山久遠寺を御草創された大旦那様であると伺っています。御子孫様が甲州から八戸に御引き移られた在所は言うに及びませんが、遠野にも同じ宗門の寺があるべきです。しかし当地に法華宗の寺院がないのはなぜなのでしょうか、と。
 私は次のように答えました。それはもっともな疑問です。御当家8代政光様が八戸に御引越しされる時、久遠寺の御弟子である日祟という僧も八戸に御引き連れてきました。新寺を建立すると遠光山身照寺と号し、寺領も附け置かれましたが3年経って日祟が遷化(※ゼンゲ 高僧が死去すること)しました。その頃の諸国は兵乱最中の時代であるため、遠い身延に後任の御願いの御通達を出すことは難しく、廃寺となってしまったそうです。これにより、遠野には法華宗の寺院がないのだと老人が語るのを聞きました。
 またこんな質問がありました。久遠寺御草創の節、寺領30石を御寄附されたという説があります。本当にそうなのでしょうか、と。
 お答えします。身延山の儀を記した書籍の中に、御寺領が30石であると記載したものはいまだ見つかっておりません。享保年中に私は七面山に御代参のため身延へ登った時、御寺の役僧衆へ御寺領について尋ねると、日円様(実長様の事)から当寺へお寄進の御証文には田地の石高は書かれておらず、東西南北の里程もありません。四方の大雑把な境が書かれているばかりです。その御紙面の写しが「身延小鑑」という版行物に載っていますが以下のように記述されています。

 身延の境の事
  北は身延の嶽、東は寺平の峰、南は鷹取までの峰のあらしを境、西は春気を境とする。
 永仁3年12月16日  日円(御判形)

 上記の境の山々はいずれも高山であるため正確な距離はわかりませんが、大概の見積もりは東西3里あまり、南北2里あまりはあるかと申し伝えられております。七面山に参詣する路程は、みんな大山ばかりで田畑は一向に見られません。久遠寺から18町上の山中に奥の院という大きな御堂があります。零落しており御再営するための諸材木が大量に寄せ集められていたのを見たことがあります。七面山から下に向かい、聖□様から直にお聞きしたことによると、奥の院御堂の建立用諸材木は言うまでもなく、当山の諸堂・寺院・町屋等にいたるまで修理再営用の諸材木は他山に一本も求めなかったそうです。全て日円様御寄進の山中から伐り出して賄え、ありがたいことであるとおっしゃっていたと聞きました。
 また、こんな質問がありました。政光様が甲州から八戸に御引越しし、法華宗の新寺を御草創してその住持が遷化されました。後任の御招きについては乱世ゆえ身延への御通達が難しく、廃寺となったと前の御話しで承知しました。それ以後の身延への御書簡やその使者のやり取りはどなたの時代に再開されたものなのでしょうか。
 お答えしましよう。政光様が奥州に御引き移りになって以来、打ち続く乱世によって御子孫様の甲州への御通路は絶えておりました。直栄様の時代までその御沙汰がなく、義長様が御家系を調べようと思し召した頃に、身延について疑問があると久遠寺へ連絡を遣わせ始めました。実長様の御子孫から書面で御連絡したそうです。それ以後は義長様が江戸に御登りになった時、聖人も江戸へ出て御対面をなされました。それ以降は御書簡のやりとりはありましたが、使者を登らせたことはないそうです。
 元禄12年5月、義論様が大病にかかられた時、七面山へ御立願の使者として鳥屋部六右衛門(千葉勝右衛門の祖父)を登らせました。これが身延へ使者を遣わせた始まりです。宝永年中、利戡様が江戸へ御登りの時も聖人が江戸へ行ったと谷中の瑞林寺(この寺は久遠寺の末寺で、聖人が江戸の御宿坊として使用していました。この寺は前々から身延へ御書簡の取次をしていました)から知らされました。瑞林寺にお見舞いに来た聖人と御対面なさり、聖人も御当家が江戸に上られた際は愛宕の下の中屋敷へも御見回りになりましたが、お会いできませんでした。それは御座敷がなかったためで、御取次ぎ衆が他へ行っている旨も申し上げました。信有様も御先代のようにやりとりなされ、久遠寺34代見龍院日裕聖人が住職になったという知らせも当家に来ました。御祝儀の御使者として田中三右衛門(十左衛門の祖父)が身延へ遣わされました。六右衛門・三右衛門が登山する頃までは御当家を実長様の御子孫だとばかり御承知で、御正統な御嫡家とは御存じなかったため、両人への御会釈などは簡素であったそうです。

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