mark 【口語訳遠野古事記】怪異譚の事


 一 こんな質問がありました。昔は野山に限らず遠野の御城下、それも武家が住む町でも、一つ目を凄まじく光らせた禿童子(※カムロドウジ おかっぱの様な髪型の子供)や、見越入道(※『遠野物語拾遺』の170話に類似の話あり。) という恐ろしい顔をした大坊主が出没して、頭を長く差し伸ばして通行人を見降ろしキッと睨んで魂を奪ったりしたといいます。また、鉄漿(※お歯黒)を黒く染め歯を剥き出す大口乱髪の大きな顔をした女が通りに現れるなど、往来の女子供を夜な夜な驚かせる化け物が様々な場所で目撃されています。これは狐狸のなす業であるという古い説がありますが、その後怪しい化け物の風説はなくなりました。また、狐に欺かれ二、三日も山野を彷徨い歩いているのを、訪ねてきた人が見つけ出し連れて帰るということもありました。どこを彷徨っていたのか、家を出て今日まで幾日も食事を絶ち、さぞかし腹が減っているだろうからまず食事をして見てきた所の様子を語ってくれと尋ねてみました。すると、飯は少しも欲しくはない。その場所の名前は訊かなかったが、姿が美しい男女数人に「こっちへ来い、こっちへ来い」と連れて行かれ、その先で甘い餅・団子などの砂糖菓子を貰った。腹いっぱいになるほど食べても少しも飽きることはなく、面白い踊りがある芝居を観る場所や、色々と美しい花火を見せるところもあり、生まれて初めて贅沢に耽っていた。その最中にあなた方に見つけられて自宅へ帰ることとなったのは残念である、と言うのです。貰って食べた余りの菓子はこれだと言いますが、懐や袂には牛馬の糞がたくさん入っており、「ああ恋しい、あの場所へまた行きたい、行きたい」とうかうかした様子で放心した者もいたそうです。或いは狐が憑いて、寝たり起きたり、身を悶えさせたりと行いが常軌を逸し、戯言を声高に発して傍近くにいる人の顔に食いついて手を掻き裂く者や、人のいない方へ向かってひそひそ話して笑う狂乱者の様な者も現れました。いずれも祈祷・針・灸・薬を用いて回復したと聞きます。ここ五、六十年来、異形の化け物、狐狸に騙される者、狐に憑かれる者の風説がなくなったのは近代の人が昔の人より知恵があり、かつてのように狐狸の妖術が通じないからだという人がいます。本当にそうなのでしょうか、と。
 お答えしましょう。禽獣は暗く濁った偏気を授かり得て生まれたため、陽気の強い白昼には陰と陽両者を備えた人間を誑かすような妖術は通じません。したがって黄昏時から夜分になると、陰気精力を借りて人の心を惑わすのです。老人が申し伝える話を聞くと、百年前後の遠野の有り様を今の様子とを比較した際、昔は諸士丁、町方共に人の数も家屋数も少なかったため、陽気が薄く陰気が厚く満ちている時を見計らって狐狸も自在に妖術をけしかけていたのでしょう。ようやく末世になって人も家も増え、陽気の勢いも強くなって自然と陰気な狐狸は人の心を惑わす術を用いることが叶わなくなったのです。昔の人が愚鈍で近代の人は知恵が長けているため狐狸の悪戯がなくなったというのは偏見からなる道理に外れた考えです。確かに昔は異形の化け物に襲われ狐に騙され、野山を誘われ歩く者は稀にいたが、いつも欺かれていたわけではありません。人の噂によれば、天性の愚か者で思慮が浅く日頃から些細なことも恐れ驚く浮ついた者、或いは在郷から商売で横田町に商売で訪れた際に飲みすぎて放心した者、または、家への土産用に買った菓子類や肴の包みを手に持ち千鳥足で帰宅する者などが化かされるようです。狙いの食物を奪うと化かした相手をそのまま捨て置き立ち去る狐狸もあれば、直々に野山を引き連れまわす場合もあるといいます。
 同じ頃、御台所様付きの御端下女が、日暮れ後に酒を買うために坂を下っていると、お藤(※横田城内の沢里屋敷前にある大藤か)の辺りに、恐ろしい形相の大入道が行く手を遮り御端下女を脅かしました。この下女は普段から物怖じしない肝の太い気質であるため、「お前はどこの坊様なのか。ああみっともない御顔だ」と手に提げた小樽を振り上げ、坊主の顔へしたたかに打ち付けるとたちまち大入道は形を失ってしまったそうです。それから井戸の近くへ行った時、五、六歳ばかりの禿童子が下女の先に立っていたので、「待て待て、夜中に一人で歩いていると喰われるぞ。私に負ぶさって親のいる自宅へお帰り」と追いかけました。すると振り返った童子の一つ目が凄まじく光り、物も言わず山手へ上がり藪の中へ走り去ってしまったのです。下女は「一度ならず私を慰めるために骨を折ってくれた。大義、大義」と笑って坂を下り、酒を調達して坂道を上ったが終始怪しい者は見ていないと語ったと、直接話を聞いたという老人の話を私が幼いころに聞きました。
 また、知行所の田屋(※地名。現在の上綾織の辺りか)に住宅がある人が、用足しに横田へ行くついでに調達した客用の魚や鳥を馬に括り付け、暮れ以降灯りを付けずに帰路についておりました。その途中、「拙者は貴方様の帰りが遅いため迎えに行ってくれと御近所のおかみさんに頼まれた者です。」という男に出会いました。しかし、その口上は普段と違い呂律もおぼつかないことに気が付いて、はてさて近頃この辺りにいたずら狐が出ると噂があったがこれがその狐で、自分が持っている魚や鳥を狙っているのではないか、と思い至りました。そこで、「ごくろう、ごくろう。私は酒に酔っているので傍を離れずついてきてくれ」と寝たふりをして連れていきました。狐が少しでも馬の後ろに回ると「来い来い」と呼び寄せ、程なくして家に着きました。介抱してくれと馬から下りた時に、その狐男の懐へ飛び掛かり力ずくで締め押え「松明を出せ!煤萱を持ってこい持ってこい!!」と叫びました。するとこの男は「私は狐でございます。あなたがお持ちの魚や鳥欲しさに不埒なことをいたしました。今後はこのようないたずらはしませんから命だけはお助け下さい」と泣いて詫びたと言います。殺すのも不憫になり、また親の忌日でもあるため、先ほどの事を言い含め許して放してやったという古い話もあります。
 上記のように、近代の人は知恵があるから欺かれず、昔の人が愚かであるから騙されると批判するのは過ちであり道理から外れていると私の非難する心を考え察して、その是非を判断してください。
またこんな質問がありました。医学書に、天地の陰陽のバランスが崩れれば暴風・霖雨、地震・雷などの天変地異が起こる。人間も五臓六腑に不和が起こると、虚弱な病身の目には風になびく草木も自分の庭の置石も、怪しい形に見えると書いてありました。この世で異形の化け物を見たり狐に騙されたりなどというのは、己の病が作り出す怪異であることも知らず、不思議な珍事だと言い始めるという説を聞きました。一犬虚を吠えれば万犬実声を争うという諺のように、段々と噂が広まったことで怪異譚が人々の口にのぼるようになったのか。狐狸が人を惑わし誑かすのは一切根拠のない嘘話である、という説をどのようにお考えですか、と。
 お答えしましょう。医学書の一部を見て物知り顔で狐狸の風説を根拠のない嘘話であると決めつけ批判することは、竹の穴を覗き一つの星を見つけ、広い天にその星しかないと思い込み他の多くの星を知らないことと同じです。この怪異譚が虚説ではない証拠ならばあります。人皇七十代鳥羽院の時代、野干(※狐)が官女の玉藻の前という名の美女に化けて上皇様を惑わせておりました。当時の天文博士である安倍泰成が申し上げることによると、「鳥羽院様を悩ませているものは古老の野干であり、玉藻の前に化けて上皇を傾けようとする障碍です。調伏(※敵意を持つ相手を信服させねじ伏せること)の祭りを行い、これを退けましょう」とのことでした。早速勤行の壇上に五色の幣帛(※青・黄・赤・白・黒の御幣)を立て飾り、丹精込めて祈祷しました。すると玉藻はたちまち五体を苦しめ、御殿から逃げ出し雲路を翔け、下野の国那須の原に隠れ住んだと聞いています。
三浦介(※ここでは三浦介義明。相模国の武士)と上総介(※ここでは上総介広常。上総・下総に勢力を張る千葉氏)が野干退治の勅命を受け、犬が狐の形に似ていることから犬を使った鍛錬に励みました。四方へ虎落(※モガリ 竹で編んだ柵)を巡らせて犬を入れ、それを射る稽古を百日行いました。これが犬追う物の始まりと言われています。
犬追う物の作法は島津家に代々伝わり、元禄年中に将軍綱吉公が御所望になって薩摩の太守が御前で行ったそうです。二人は稽古を積んで下野へ下り、狩り装束で弓矢を携え、数万の騎兵歩兵で那須の原を取り囲みました。すると駆り立てられた数千の獣が逃げるその中に、幾年歳を経たのかわからない野干が草むらから飛び出したのです。「これぞあの狐だ」と両氏が放った鏃で命を失いはしたものの、怨念はこの野に残って石となりました。人間は言うに及ばず、禽獣・虫の類に至るまで触れるとたちまち死んでしまう「殺生石」と名付けられました。今もなお現存すると日本の実録にあります。
また、異国から伝来した書籍である『酉陽雑俎(※ユウヨウザッソ 唐代末に成立した怪事異聞集)』によれば、野狐は夜に尾を打ち付けて火を出し、髑髏を頭の上に乗せ北斗(※北極星)を拝み、その髑髏が落ちなければ人に化けられるのだそうです。狐、狸、山犬や狼は怪をなす、とも書かれています。『抱朴子(※ホウボクシ 神仙思想・神仙術の集大成)』には、狐狸や豺狼は八百歳であり、五百歳になれば変化して人の形となる、などと。以上のように異国・日本共に怪異が出現するため、武家に蟇目鳴弦(※ヒキメメイゲン 魔物の調伏のため弓に鏑の一種をつがえて射る作法)が伝わっています。
神道・仏法に加持祈祷の呪法があるのは、医家に針灸や薬を用いて治療するのと同様です。それを踏まえて医学書に書かれている質問の説は虚無の妄説であることを知っていただきたく思います。

 【盛岡御屋敷御普請の事】
盛岡御屋敷
一 慶長年中に盛岡城の普請が大方完工しました。利直様から八戸家の二十代目左近直政様へ今の敷地が割り当てられ、御屋敷の普請も殿様から全て先例の通り建ててよいと仰せ渡されました。その時の御屋敷は、現在の下御門から非番の長屋の土手際までは他家の屋敷で、左近様の御屋敷の敷地や坪数は狭く、規模が小さいものでした。御成屋敷前の御庭には左近様が御植えになった松・柏等大昔からの木々が数本あります(延享年中に消失)。御成屋敷も代々御修復になられ持ち伝えておりましたが、同じく延享年中に消失してしまいました。直栄様の時代まで、下御門から土手際まで町奉行の田代治兵衛殿の屋敷が建ち、今の御馬屋の背後の土手に生えている松は田代殿の庭木です。
 上記のとおり手狭な屋敷だったため、殿様は田代殿にほかの屋敷へ移るよう仰せつけられました。そしてその屋敷跡を直栄様にくだされたそうです。寛文年中以前に建設されたこの御屋敷は、表裏共に座敷の数が不足しているばかりか、お客の対応をする御座敷・御番所・御式台なども、当時の他の屋敷に比べると殊の外粗末に見えました。義長様の御居間は今の小書院の場所にあり、雁の間は御嫡子の佐渡様(御早世)の御居間でした。お料理の間は今の御広座敷でした。御台所は今の料理の間に今の御台所の三分の一の面積を加えた程度だったそうです。このような状態でありましたが、大勢に対する御振舞も御成りも相応に行えたのは時代柄の御蔭と言えるでしょう。
 直栄様が田代殿の屋敷を御拝領して以降、御屋敷の敷地も広くなり、表の長屋を土手際まで建設し連続御馬屋(これ以前の御馬屋はどこにあったのか場所は聞いていない)も、今の御馬屋から手明長屋前の土手際へ曲り屋を建てたそうです (この曲り屋は元禄年中に取り壊された)。直栄様は内々の御隠居屋へ(屋敷裏にある)御引き移り、それ以降義長様のお指図で段々と御本屋の普請が始まって、広大になられたのだと老人から話を聞きました。。

一 寛文十戌年、御式台より御番所・使者の間・桐の間、表に書院(これまでは御格式=儀式を執り行う座敷と申し伝えられている)、石炉の間、小書院を御建て直す普請が行われた。
一 延宝七未年、表の長屋を建て直した。元禄十五年、利戡様の時代に御修復する際、前々から工藤覚兵衛・木村半助両人を妻子共に御長屋(今の御預長屋の大工小屋)に差し置いていたが、遠野へ引っ越すよう仰せつけられた。
一 天和三亥年、御台所を建て直した。これ以前の御台所の屋根は、格子破風が少々破損している箇所があり古いものだった。今度の修復でこれを再利用するのは不相応だと見受けられたため、新しいものにするべきだと御役人が評議していると、中舘忠左衛門がこう申した。「今の古い破風を用いるべきだ。当分は不相応に見えるが、六、七年も経てば屋根も古くなり、釣り合うようになる。新規に作るのは無駄な出費である」と。こうして表の御屋敷の屋根とは違い御台所の事であっため、古い破風の少し壊れた箇所を修繕して用いることが決まり、殿様にそう申し上げました。すると忠左衛門の思慮を汲むよう思し召し、古い破風を再利用しました。その箇所は六、七年と経たないうちに古いものか新しいものかの区別がつかなくなったと老人から聞き及びました。
一 貞享四卯年、牡丹の間並びに奥の御前の二間、そのほか奥の座敷を普請しました。牡丹の間というのは、石炉の間の西側にある二つの座敷のことで、いずれも小ぶりの牡丹 や唐草の絵などが描かれている唐紙を総張りしたため牡丹の間と称されているのです。
 二間のうち、奥の御座敷には御床も御書院棚もあり、次の御座敷には御床と御棚があります。その次に石炉の間へ続く間の縁側が続きます。いずれも結構な座敷でした。右の二間の背後に御納戸があり、半分は二階、その上にもう一階があります。これを高御二階と称します。御城下は言うに及ばず、遠くの村々まで眼下に臨むことができました(この牡丹の間は義長様・利戡様・信有様の御居間にもなられた)。利戡様の御代に高御二階は取り壊されています。この牡丹の間は正徳二辰年の修復工事中、利戡様・お慶様が遠野へお暇を願い出になられていました。しかし、利戡様が六月中旬に御病気になり、養生も叶わず同二十一日に遠野横田城で御逝去されました。
一 以上の普請のほか、御広座敷台子の間・常の御居間・御次の間・御納戸・御料理の間等の造作はいつの頃のことであるのか。私が若い頃に老人に尋ねてみましたが、答えは分からず、古事記にも見当たらないことを申しておきましょう。

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