mark 口語訳遠野古事記【一日市町高札の事】


一 こんな質問がありました。一日市町には掛け置かれた御高札が数多くありますが、その中でも盛岡御屋敷の御家老衆の御連判がおしてある新しい御札は、駄賃・夫賃御定法に関する書面のようです。その他、年号・月付の下に御名判がなく「奉行」とだけ書いてある古い御札は、どれも文字が不明瞭で読むことが出来ないため、どのような儀が書かれているのか御趣意が汲み取れない物でした。奉行とは御町奉行の事でしょうか、遠野の市中に掛け置かれた御札の子細を全く知らないばかりか、御札の数も何枚あるのか覚えがないなど重ね重ね過ちを犯していることに図らずとも気が付きました。御札の前で足を止めて見てみると文字の続きは確かに見分け難いのですが、そうしていると他人の往来を妨げてしまってはという遠慮もあるので、あなたが御札の書面について御存じならばあらましだけでも教えていただきたく思います、という質問です。
 答えて言いました。御高札を掛け置いていた頃の世間の風説を聞き伝えた老人の昔話を私が若い頃以下のように聞きました。
 徳川五代将軍綱吉公が御老中に次のように命じられたそうです。諸大名や御旗本の武家は、皆儒教や仏教の書籍を見聞きすることで人道の作法を学ぶ身分であるが、権現様の時代以来、代替わりの度に大小の武家が心掛けるべき御法令を陪臣に至るまで渡らせていた。しかしその他の庶民へは、これまで身分相応の心掛けを言い渡すことがなかったため、愚痴文盲(※愚かで学のないこと)な者どもは人道における善悪を知らずにいる。そのため衆人の害となる悪事を働き重罪の刑罰を課されるのだ。その根源は、日頃三奉行(※町・寺社・勘定)から口上で知らされるのみで表立っての御定めを言い渡されなかったことにあり、これは御上の過ちである。これは「古語を教えずして民を殺す」という仁のない政道である。これにより、人間が勤め行うべき正しい道の多くはこのような心掛けであると指南した箇条書きを高札に記し、往来が盛んな町辻に掛け置いて広く天下の万民に理解させたい、と。
しかし、先例がない御高札をこの度初めて掲げるため、各重臣にその意向を内々に知らせ、重臣が同意すると綱吉公が表立って言い渡すことになりました。世俗に通用する文章として、和国の行文字(※ワコクノギョウモンジ 日本の行書)と平仮名を交えて書いた御箇条書を出し、三奉行身分の留守居にこの写しを渡すと、「このように高札に書き出して御領・私領共に人の往来の多い場所に掛け置くように」と命じました。そして、在町の人がいずれも御札を見て書き写し、朝夕これを拝んで書面の行いを守るようになったのは言うに及ばず、弟子へもこの内容をよくよく教え訓じるようにと申し渡しました。特にも、遠く辺境の地に住む卑夫(※シツ 身分の低い卑しい者)や山児(※ヤマガツ 本来は猟師・木こりなど。ここでは身分が低く理を理解しない者)といった文字の読めない雑人には、高札に書かれている文章の意味を口頭で丁寧に言い解き、腹の底まで飲み込ませて守るようさせたと聞いています。もし、この掟に違反して世の人々の仇となり刑罰を課された者は自滅を招く悪人であるため、これは仁のない政治ではないと綱吉様は御思いになられました。そして、この箇条書きをよく検討し、内容に過不足があれば遠慮なく申し上げるようにと仰せられました。御家老衆は拝見を終え、「御仁政の思し召し御もっとも至極に存じます。と御箇条の書面に増減の意見はございません。いよいよ公表する時でございます」と一同が申し上げ、御本書の通りに御高札に書き出し、三奉行・諸家の留守居に上意の内容を申し渡しました。
 天和2年5月、江戸の日本橋を始め諸国の御領・私領へ御高札が掛け置かれたのです。その御札に奉行と書いてありますがそれは町奉行ではなく、御老中の事です。奉行の「奉」という字は「承る」、「行」の字は「おこなう」と訓読みします。公方様から仰せ渡された政道を御老中が承り、広く天下へ執り行うという意味です。
その頃、無知文盲な世の中で少しでも心がある人は、御指南の書面をまことに有り難く思い、それを他意なく正直に守ったそうです。御札がある場所を通る時には被り物を脱いで頭を下げるなど慎みを持って往来しました。このように、名聞(※評判や名声)を好む儒教や仏教の未熟な学者よりも、内外でよい行いをする人が多くなりました。
 天和2年から80年余りを経た現在では、先祖が書き置いた遺書を紛失し持ち伝えている家は稀になりました。あまつさえ御札の前を通る際も被り物を脱ぐこともしません。懐に手を入れ高下駄を履き、少しも高札を敬い恐れる気配を見せないような世の風俗になったのは、結局この高札の由来を知らないからでしょう。意図した過ちではありませんが、昔とは大きく変わったものです。その今までの過ちを悔やむ善い心から、高札について御尋ねになるあなたに奇特な志を感じましたので、私の家にある御高札の写しを貸し与えます。よく拝見して書かれていることを守り行ってください、と言って取り出しました。その書面は次の通りです。

○掟
一 忠孝(※忠=主君への忠誠、孝=父母に対する奉仕)に励み、夫婦兄弟諸親類仲良くするべし。召使の者にいたるまで憐憫の気持ちを与えること。もし、不忠不孝な者がいればこれを重罪とする。
一 何事も驕ることなかれ。家屋や衣服、飲食に及ぶまで倹約を守ること。
一 悪事を企む、或いは嘘をつく、または無理を申し掛け利欲のために他人に害をなしてはいけない。 ただ家業を勤めること。
一 盗賊ならびに悪党どもがいた場合は訴え出るべし。必ず褒美が下される。
附 博打は固く禁止する。
一 喧嘩・口論はやめるべし。自然に始まってしまった時はその場へみだりに出向かず、また、負傷し た者を放っておかないこと。
一 死罪に処される者がいる場合は身内以外刑場に集まらないこと。
一 人を売り買いすることを禁ずる。ならびに召使の下男下女共に年季を十年と定め、その定数を過ぎ た者は罪に問う。

附 代々仕えてきた者、またはそこに住み込みで奉公している者は他の所へ越させ、妻子ももてるよう取り計らうこと。その上年季が明けた者を呼び戻してはならない。
これらの事を守るように。違反する者があれば厳科に処す。言い渡す内容は以上の通りである。
天和二年五月 日  奉行

○条々
一 毒薬ならびに偽薬種の売買を堅く禁ずる。もしこれで商売する者があれば罪に問う。例え同業であっても訴え出れば必ず褒美が下される。
一 偽の金銀を売買することを一切禁止する。誰かがたまたま持ち込んだ時は、両替屋で打ち直しその 持ち主に返すこと。規格外の金銀や偽金銀は、金座・銀座へ持って行き検査するべし。
附 偽物を作ってはならない。
一 寛永の新銭(※寛永通宝)は金子一両につき四貫文とする。もちろん一歩は一貫文とし、御領・私領共に年貢を納める際は規定された分を満たしていること。
附 質の悪い貨幣や偽銭、古銭を使用してはならない。
一 近頃出版されたけしからん書物を販売してはならない。
一 諸々の商売において買占めての販売、或いは同業で申し合わせて高値にするべからず。
一 諸々の職人は申し合わせて商品の値段や手間賃を高値にしてはならない。誓約を交わして徒党を組むなど言語道断である。
これらの条々を守るべし。もし違反する者があれば厳科に処す。以上このように命じる。
天和二年五月 日  奉行

○定
一 キリシタン宗門は毎年御禁制となっている。不審な人物がいれば申し出る事。その褒美として、
伴天連の宣教師   銀五百枚
伊留満の助修道士  銀三百枚
立かへり者(※一度棄教し再びキリシタンになった者) 同断 銀五百枚
同宿並宗門(※隠れキリシタン)  銀五百枚
以上の通り下す。例え隠れキリシタンの身内であっても、訴える対象により銀五百枚をつかわす。それを隠し置き他所から発覚した場合は、その土地の名主並びに五人組に至るまで厳科に処す。以上このように命じる。
天和二年五月 日  奉行

○覚
捨て馬については重ね重ね申し渡しているが、近頃も馬を捨てている者がいる。それについては必ず処罰するが、この度も流罪を仰せつけられた者がいる。今後も捨て馬をする者があれば重い罪に問う。
十二月 日

○覚
人身売買は固く禁ずる。召使の下男下女共にその年季を十年に限るが、今後無期限に召し抱えたい場合は相談し、両者とも承知すること。
元禄十二年三月 日  奉行

【上納の御役金の事】
一 こんな質問がありました。直栄様が遠野に御引き移りになられて以後、村から上納された御役金は、御百姓達が竹筒に砂金を入れ新田内匠(この時代の御元締め役)の家へ持参し、折敷(オリシキ 盆の一種)へ納めていました。その頃は秤もなく、御百姓が所有している土地に応じて砂金の目方を目分量で測り受け渡していたという古い話があります。一歩判の金子(※一歩金のこと)の通用はいつの頃から始まったのでしょうか、という質問です。
 お答えしましょう。かつては諸国では押しなべて砂金ばかり通用しており、歩判の金子はありませんでした。太閤様の時代に初めて一歩小判の使用が仰せつけられ、金座で吹き出す金を慶長金と名付けました。その翌年に太閤様が崩御なされ、権現様(※徳川家康)の天下で御政務となりました。新しい金を通用するよう仰せ渡され、砂金と両替した金子の鋳造を怠らないようにと金座である後藤家に仰せつけられました。江戸に近い国や上方筋では段々と新金が流通し、砂金は使用されなくなりましたが遠国では新しい通貨が廻らない状態でした。稀に使用されても、扱い馴れない金子のため砂金より流通せず、新金を嫌い砂金ばかり用いていると上方に伝わりました。そこで砂金を所持している者は早々に金座へやり、両替して判金(※新しい金子)を用いさせ、砂金の使用停止を厳しく仰せつけられました。遠国にも新金が年を追うごとに多く出廻って以来、遠野において砂金の通用はなくなったという老人の話を聞きました。

○またも質問がありました。慶長金の通用以後たびたび新金の鋳造を仰せつけられ、現在流通していた文ノ字金(※通貨量を増やすことを目的に造られた金貨。金の含有量は慶長金と比べて44%減)より前は何回通貨が変わったのか、という質問です。
 お答えしましょう。慶長金の後、初めに出廻った元ノ字金(※元禄時代に発行された金貨)以降、段々と変化していったお金で私が実際に見聞きし把握しているのは以下の通りです。

一 慶長元年申年   太閤様の御代に一歩小判金が初めて出る。慶長金と称す。
一 元禄八亥年九月  常憲院様(五代綱吉公)の御代に吹替え、元ノ字金と称す。
一 同十一丑年六月  同御代二朱判金が出る。元ノ字金一歩の代わりに二歩引き換えの小形金や、元ノ字金と交えて通用。
一 宝永七寅年四月  文照院様(六代家斉公)の御代に小形金に吹替え、乾ノ字金と称す。
一 正徳四午年五月  有章院様(七代家継公)の御代に慶長金に吹替えられる。
一 元文元辰年六月  有徳院様(八代吉宗公)の御代に吹替えられ文字金と称す。

以上のうち元禄の新金は、正しい金の分量を減らし銀や銅との交わりものを加えているため、慶長時代の古い貨幣に比べ格が大きく下がり、諸人の通用には至りませんでした。しかし、当時の公方様(五代綱吉公)に仰せつけられたことであったので、新金を最初に鋳造する時は古金に劣らないよう、新古の差が無いよう取り交わして通用しました。私が若い頃は富のある人を金持ちと呼んでいましたが、それ以降の度重なる改鋳によって金の値段が高下し相場が狂ってしまいました。金銭交易時には金の方損をするため、金の威光は段々衰えてしまいました。ついに銭の方が威勢がよくなったので、他領は知らないが遠野では富人のことを「銭持ち」と呼ぶようになったのです。

一 こんな質問がありました。寛永銭(寛永通宝)十文が一銭として通用することにより、表には「宝永通報」、裏には「世用永久」の文字を鋳付けた一寸二分の大きい銭を持っている人を見ましたが、遠野でもこの銭が通用したのかという質問でした。
 お答えしましょう。その大銭は常憲院様の御代、宝永年中の始めに通用するよう仰せられましたが、諸商売物の代金としては差し引き以前より面倒で差支えがあるので世の人は通用を嫌がりました。同六年、公方様がお亡くなりになり、文照院様の御代の初めに大銭の通用が取りやめられました。この貨幣が使用されたのは始めから終わりまでの僅か五、六年の間であったといいます。そのため遠国には未だに流通しておらず、遠野での通用もありませんが、稀に持ち込まれることがあります。それを一銭、二銭貯めておく人がいて後世の見世物になるのです。

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