mark 【口語訳遠野古事記】椀飯の事


一 直栄様が八戸にいらした時、御家中の知行取の諸士(※地頭)は前々から毎年年始・端午の節句に百姓達に分限相応の振舞いをしておりました。これを椀飯(※オウバン)と言い、遠野への引き移りにお供した者達は当地でも八戸のように椀飯を振舞いました。その様子は百姓も自分の身の丈に合った礼銭を持参して節句の挨拶を申し述べ、人数が揃ったらその座敷に、正月は菓子餅か煎餅、端午には粽の銘々菓子を出します。その後、膳を据え朝飯(昼飯の家もあり)を腹一杯になるまで食べると、その飯椀で手造りの濁酒を互いについだりつがせたりの酒宴となります。最中には左手打ちのざっくら節・田植唄・山唄・大黒舞・羅漢舞・刺鳥舞・妙音舞など思い思いの乱舞が酒の席を賑わせます。宴会が終ると上座に地頭が出て、節句の祝儀としてこぶくらの盃で三献飲んで「有り難し、有り難し」と千秋楽を唄いながら座を立ちました。端午の時には粽を袴の腰へ差し添えて門前へ出て、あっちへぶらぶら、こっちへよろよろ、と千鳥足を踏み直しながらやっとのことで宿へ帰る者や、道に倒れ臥せっている所を我が家だと思って「水をくれ」と妻子の名前を呼ぶ者もおりました。 
 この振舞いの始まりは、百姓が主人から拝領する知行の田畑の地方(※その土地の格)である上中下相応の代金を地頭へ上げ、春から冬まで一日も手足を休める間もなく辛労して作り出した田地の諸役年貢を毎年取り上げた収入で主君へ奉公し、なおかつ家内を養っている百姓への恩に報いる謝礼の古い慣習にあるのでしょうか。
 御譜代衆の家々では、椀飯(※オウバン)を催しているのを新参衆が見習い、椀飯で賑やかに節句を祝っていました。しかし時が経って世の中も困窮すると地頭は節句祝儀の入用物や椀飯の支度を面倒に思うようになり、百姓も礼銭の工面に余裕がなくなりました。双方が難儀する世の中になってしまったので30年程前に当分は椀飯の慣習をやめ、今後の様子次第で再興させるようにと御前が仰せ出されましたが、それ以来当年まで椀飯の沙汰はなく、昔の年始・端午に比べて大変寂しくなりました。地頭から百姓に対して感謝する正しい道も歩めない世の風俗に変わってしまいました。しかし万物の盛衰とは輪が切れ目なく周っているのと同様、将来椀飯が再興する時が到来するかもしれません。それまでの間椀飯が年始・端午を賑わせた有り様を、目で見ぬ壮年以下の者に対して書き置いておわりましょう。

 【御用御留書始まりの事】
一 往古の人の心はせわしいということはなく、ゆったりしていて記憶力がよく一度見聞きした事は生涯忘れないものでした。また、内外の用務も少ない時代には御城の御用の間に御留書もなく、後役へ段々と申し継いで用を済ましておりました。しかし、後々証拠となる重大な用務の御書付は盛岡御納戸蔵の御秘書箱に回されました。段々と時が経って後世の人の記憶が薄くなり、盛岡御城から仰せ渡される御用も内々の御用も多くの情報の中で疑わしいものが出始め、時折用務に差支えるようになりました。そのため盛岡御屋敷は万治年中から、遠野南部家は寛文年中から御内外の用務を書き留める留書が始まりました。義長様の時代には御祐筆所にも留書を仰せつけられました。かれこれ数年来の御留書や諸証文がおびただしくありましたが、以前の用務の詮議も終わり、御当家の貴重な宝物となりました。しかし、ああ危ういかな、延享年中に御屋敷が火事になり御祐筆所の御留書が焼失してしまいましたが、御用の間の御留書は不思議と火災を逃れ、つつがなく残ったというのは大いなる幸いと言えるでしょう。
 
【御城曲輪に唐竹植栽の事】
一 義長様の時代、御城の御曲輪(※城郭)に数度唐竹を植えましたが枯れて根付かず、稀に根付いたものは笹に変わってしまいました。それから数十年が過ぎた享保年中、末崎和右衛門が気仙の人から根付いた竹を他の所へ移し植える方法を聞き、御曲輪(※城郭)の所々に植えさせました。その中で堀間の沢に植えた杖竹程の竹が三、四本生えましたが間もなく枯れ、其の外はどこにも根付くことはありませんでした。遠野は海辺まで一日かかる距離で隔てられ、また閉伊・気仙よりも高台にあるので寒冷の気が強く竹が傷むから根付かないのだろうと云う人もいました。甲州の身延山久遠寺の御境内は七面山という高山の麓にあり、高い地形で駿河の海まで一日の距離なので、寒気も大概遠野に似ている土地ですし方丈の御庭前にも坊中の庭にも竹藪があり、深雪に押し倒され伏しなびいている様子を見ることができます。こうして見ると、寒国の中でも遠野の土地は天然の陽気が薄く、寒冷の気に押し勝つ勢いが弱いため竹が育たないのでしょうか。竹を好む後世の人は、昔の人が竹を植えても功を成さなかったということに反して竹を植え、無駄な民力を費やしてはいけません。
 
【寒中、行人坊主の事】
一 正徳年中の頃までは、毎年12月の小寒に入る初日を中日とし、大寒の終わる日まで早朝に水垢離をする行人坊主(※修行者、行者)三人が上同心丁から下同心丁までの町を通りました。三人のうち一人は「屋内の御祈祷の寒の水寒の水」と打鉦を鳴らし、その後から一人が裸で鉢巻をして藁けんたびを腰に巻いて出ます。もう一人は初尾(※ハツオ 神仏に奉納する金銭・米穀など)の銭を取り集めて廻ります。通りや町の家は手桶に水を入れ、桶の取っ手に三銭、五銭の初尾を結びつけて置いておきます。そこに裸坊主が立ち寄り、桶の氷交じりの水を浴びて体を紫色に変えて町を通ったのです。享保年中の頃よりこの行人が通る音は聞こえなくなりました。
 
【宝永年中、婚礼水祝いの事】
一 宝永年中の頃まで五町(※六日町、新町、一日市町、穀町、裏町)では去年結婚した男の家へ、年が明けた正月二十日に同じ町の若者達が若松の枝に紙四手を付けて持ち、その次の者は手桶に水を入れて提げ、後に続く者達は声を揃えて「可愛いの、可愛いの若妻を持った、可愛いの」と大太鼓を打ち囃してその家の前まで行きました。花婿殿に「水祝い」と声高に呼ぶと、婿は裸になり家の前へ出てきて這いつくばい、頭から水を浴びせ大笑いをしながら家の中に入ります。すると酒宴が賑やかに催されるのです。享保年中の頃からこの水祝いはなくなってしまいました。昔の人は天性気力が強く体が丈夫であったため、寒垢離も水あびせも病根となることはありませんでした。段々人の気性も弱くなり、自然と止めてしまった世の中の風俗は天命が仕向けた道理なのかもしれません。
 元禄の末、宝永の始め頃に一日市町に華やかな水浴びせが2回ありました。その行列の先頭に若松・水桶・大太鼓がいて、例のごとく「可愛いの、可愛いの」と囃します。その次には傘鉾が三本、次に十二、三歳の踊り子が十人ばかり続き、その中には女方や作り髭を付けた奴子もいます。さらに小唄・唄い・四ツ竹(※二枚の竹片を曲に合わせて打ち鳴らす楽器)・ささらすり(※竹の先を細かく割いて束ねたもの)が続きます。さらに車仕掛けの屋体の内側には検断の治左衛門が丸頭巾(※老人・僧の被り物)を被って麻の上下を着て脇息に寄りかかり、笛・太鼓・小鼓・三味線の役者を屋体に乗せています。赤根染の法被を着た若者達がこれを引き、水祝いをする家の前で色々な踊りや芸を尽くした後、鎧武者、その次に容姿のおかしい夫婦座頭、次に峰入する山伏が五、六人笈を背負って法螺貝を吹きます。これより十間程後に万石以上の大名が、初めて領地に入るような行列で曲籙仕掛(※僧侶が座る椅子)を乗せた大津馬に小姓を乗せ、口取りをする二人が馬夫節を唄います。さらに、指揮する家老は白髪の付け髪を作り、麻の上下を着て鞍馬に跨ります。この総勢が穀町にたむろして一日市町に繰り出し、大工町・裏町へ押し行って三度廻って見るそうです。この見物には御町奉行や御目付衆を始め御家中村々の老若男女や藩境近くの他郷・他領の者達まで通り筋の町屋に立ち溢れて辻々に集まっておりました。三本の傘鉾は、その頃の遠野町では富人と呼ばれる一日市町の又助・弥左衛門・長左衛門・正次郎などという者達が出したそうです。その形は、傘の辻(※傘の天辺)に武蔵野のススキを分けて出る月と吉野桜の造花をあしらい、傘の軒には木瓜染の木綿布、またはさらさの木綿布を引き回して、その中に開き扇・うちわ・ふくさ・鹿子染の女腰結等色々な端切れを交ぜ込んだ小袋・鈴・風鈴を下げます。全て有りあわせの物で飾っており、近代神明・八幡神輿に供える屋体の人形などに比べれば簡単な飾り物ではありますが、時代柄、前代未聞の珍しい見世物だと当時の人々は褒め称えたそうです。
 この水祝いが行われていた間、大名役を務めた両人が共に病死し、また町内で難しい出来事があったため、それ以降水祝いは止めてしまいました。その頃、上同心町でも水祝い・傘鉾などは行われませんでしたが、その数は大体町のものと同規模であったそうです。しかし、行列の様子は町の十分の一程に見えるのはもっともなことでしょう。この行列がある時は頭衆の妻子共に小頭の家に見物に参りました。今の風俗を以って考えれば町は言うに及ばず、御同心へ昔に倣い水祝いを行うようにと殿様から仰せ付けられても承諾の返事は申し上げられないでしょう。また、年が若い者達は昔の水祝いより軽く済む内輪の寄合を行っていると風の噂で聞きました。町奉行も御物頭も必要ではないと申し渡し、なおさら町奉行も御物頭自ら見物には行かないでしょう。古今の風俗は大いに変わりました。

カテゴリー 口語訳遠野古事記